赤いジャケット

クロッシングザブリッジ 〜サウンドオブイスタンブール〜の赤いジャケットのレビュー・感想・評価

2.5
トルコの街ではどんな音楽が流れてるの?
映画は様々な音楽がトルコにある事を教えてくれます

以下、ズラリと並べます
ババ・ズーラ、オリエント・エクスプレッションズ、デュマン、レプリカズ
最初に紹介してくれるのは、トルコのロックバンド
トルコのロックの歴史は浅いようで、1990年代以降に盛り上がりを見せたようです
そして、ロックアーティストが影響を受けたトルコの伝説のロックンローラー、エルキン・コライ

ジェザ、イスタンブール・スタイル・ブレイカーズ
トルコのヒップホップアーティスト、ジェザのいわゆるライムはカッコいいけど、「ヒップホップを好むトルコの人は男性がほとんど、女性で聴いてる人はごく僅か」と指摘していた女性が繰り出すライムの方にグッときた
「ハエは毎日死んでいく」
直接的な言葉の連続なんですね

ロマの若き三兄弟の演奏でメヴレヴィー教団の舞踊が紹介され
メルジャン・デデの舞踊が披露されます

ここからロマ音楽のアーティストが登場します
ロマ音楽に魅入られたアメリカ人
ブレンナ・マクリモン、セリム・セスレム
東ヨーロッパ音楽で慣れ親しんだスタイル

シヤシヤベンド、ヌール・ジュイラン
トルコのストリートミュージシャンです
トルコのヨーロッパ化を進めるトルコ当局は路上で演奏する彼らをヨーロッパ的として黙認しているようです

アイヌール、クルド人の彼女はクルドの民謡歌手
それまで多様な音楽が集まり混じり合う寛容なトルコのイメージが、彼女の登場で崩れます

オルハン・ゲンシュバイ、ミュゼィイェン・セナール、セゼン・アクス
トルコポピュラー音楽の重鎮だそうですが、話すオルハン・ゲンシュバイの姿が千葉真一に見えて仕方無い
気だるい危うさが魅力のおばあちゃん、ミュゼィイェン・セナール、彼女の曲をじっくり聴いてみたくなる

あくまでも紹介にとどまっていて、じっくり知りたいなら「アナタがトルコへ行くべきだ」と言われてる様な気がした
カタログ映画とでも言うんでしょうか
この映画がキッカケとなりトルコへ飛びこみ、新たな音楽が奏でられる
そんな事を意図しているんでしょうか
映画としてはどうなの?
男が異国に降り立ち、様々な音と触れ合い、そして去っていく
映画の基本構造はこんな感じです
なぜ去らなければいけないのか?
そうしなければ映画が終わらないからです
いや違う、そうする事でしか監督は映画を終わらす事が出来なかった
監督自身はまだこの場所に留まり、音楽の旅を続けたかったに違いない
でもそれでは映画は終わらない、いや終わらなくて良い筈なんですよ
最後に「つづく」もしくはカッコ良く決めるなら「旅はまだつづく」 で良い
ヴィム・ヴェンダースならそうしたかも知れない、いや彼ならカタルシスをもたらすライブやコンサートで拍手に包まれ終わらせたと思う
横たわる断層、途中で打ち切られたという感覚
この断層を繋げるためにはトルコに自らが赴くしか無い
映画としてどうなの?と思う点です
しかし、これは私が関西人なので執拗にオチを求めてしまうからなのかも知れない
「で?」
行けば良いなら、それは映画じゃなく観光案内じゃないのか
観光案内の効果は私にはあったと思う、タワレコでサントラを購入しトルコに行きたいと真剣に考えてしまう始末だ
観光案内であるなら奇妙な点がある
クルド人のエピソードが映画の中に打ち込まれる、トルコにとってアルメニア問題同様、外国人に触れられたく無い話だと思う
音楽は楽しい、それだけじゃない
文化を伝達する手段としても利用される、ましてや国家を持たない民族にとっては積極的に
同化を推し進めるトルコにとってクルドの文化は不必要である、なのにクルドの音楽がこの映画に登場する
なぜその様なおよそ観光案内に不向きなエピソードが打ち込まれるのか
内容を破綻させるとしても触れずにはいられない、クルドの音楽に監督は魅了されている
広大な音楽の海に航海に出で飲みこまれていく、そうだったはずだ、監督の終着点は間違っている
しかし、これで終わりなわけは無い
監督はまた作らざるを得ない
またトルコの音楽文化をカメラで記録せざるを得ない
この映画は定点の一つなんだ
ドン・キホーテが風車に立ち向かった様に監督は巨大な音楽に向き合おうとした、その勇気
もう一つの定点、次の定点
映画はまだ続くと思う、むしろ続かないといけない
取りとめも無い事を書きました
こちらも書かずにはいられない、それだけのパワー、混沌と言うべきでしょう、力強い映画だったんですよ
サウンドトラックを聴きながら