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左様ならのeyeのレビュー・感想・評価

左様なら(2018年製作の映画)
3.7
"左様なら" (2018)

青春ゾンビ映画

この一言に尽きると思う

海辺の町が舞台で 且つ 田舎町で展開される
青春群像劇 というより 青春ゾンビ

捉える人によっては

"ホラー映画" 

の位置付けになりそうな雰囲気さえある

学生時代に
イジメられてたり ハブられたり

グループ内カーストあるいは
人間関係のヒエラルキーだったり

そういうことを一度でも経験した人は
嫌な想いが蘇ってきて刺さっちゃう作品

クラスには
誰が支配してるかは分からない
特有の空気感があって

"連帯" と "孤独"

"友情" と "恋愛"

が蔓延っている

窒息しそうな息苦しさの裏側に潜む

儚げな"爽快感"と"高揚感"

については特に過去を想起させられる

変わり映えのない日常は
常に淡々と流れている

その中で描かれるクラスメイト 瀬戸綾の

"突発的な死" という事実にも
みんななんとなく 虚ろで 他人事

人物の喪失感を描いた作品は

"桐島、部活やめるってよ" /12

でも描かれてるけど

その感じよりも主人公 由紀の埋まらない

"空虚感"

"空白感"

が印象的で どこか死んでる目が素敵

特に掴み所がない割に ある意味普通
そんでもって 笑顔は素っ気なく 顕示欲がない

それでいて しなやかに強い
だけど 低体温感を表現してる

寂寞感に加えて寂寥感もある

友人である綾が亡くなっても
どこか現実を受け入れられず

死やイジメという 大きな物事に対して
深刻に受け止めないがゆえに

どこか孤立感を深めていく
由紀は印象的なキャラでもある

劇中 元バンドマン忍野のセリフにある

>多分いくつになっても変わんないよ
>大人ぶんのが上手くなるだけでさ

コレけっこう的を射ていて
オトナになった社会人でもイジメはある

高校生の時における輝かしさがあるとか
青春として捉えられることも多いけれど

美化されすぎてる側面も大いにある

16-18歳は子どもと大人の中間でちょっと
頭でっかちになるような時期でもある

ただ この映画に描かれる

他人(クラスメイト同士)の羨望や嫉妬
それが色濃く表現されていて非常に興味深い

自己を確立してない自我同一性拡散による
自己肯定感の低さをはっきりと描いて

登場人物達の中にある

"焦燥感"や"孤独感"

をダイレクトに他者に攻撃性として投影する

劇中にはおぼろげな現実感がある中に

ぼんやりした心像が漂っていて
どこか寂しい光景も広がってる

海辺の陽の光を浴びて 由紀と綾のやりとりが
繰り広げられるシーンには目が奪われる

瞬きしたらいなくなりそうな蜃気楼のような
(良い意味で)消えてしまいそうな

2人の存在感のなさがある

陽の差し方と2人の描き方は もはや完璧に近い

主人公 由紀は集団における立ち位置を
明確にすることに距離を置いたキャラで

ある意味で "強い" けれど 
一方で危うい厭世感もある

ラストには今まで感じなかった
由紀自身の心の決壊が起きて

"空洞"と"喪失感"が現実に追いつく

突発的に放り出されるような
まだ続きそうな様子の中で映画は終わってしまう

観終わって 帰り道を歩いていたときに

【人生におけるその時期は1回しかない】

ということを改めて実感して
自分も妙な"喪失感"を感じてしまった

そんな映画だった
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