きょんちゃみ

劇場版『リケ恋~理系が恋に落ちたので証明してみた。~』のきょんちゃみのレビュー・感想・評価

1.0
【文系と理系とは何か】

文系と理系についての二項対立的な考え方には、パターンAと、パターンAを反転させたパターンB、そしてパターンCの、全部で3パターンの人々が存在している。その3つのパターンを以下に述べる。



⑴【パターンA】
【文系=価値超越 vs 理系=価値計算】

文系と理系を、文系は価値超越的で、理系は価値計算的という対で考える人間たちがパターンAである。(これは非常に時代遅れの考え方であるから、そろそろ消滅したであろうか。)この一群の人々は、文系は価値に依存せずに超越的な物事を純粋に考えているのだが、理系は計算的理性を働かせて、コンピューターを使って、様々な問題を解き、機械を作り、利益を出しているという対比で考えている。例えば、大阪から名古屋までの、最適化された最短ルートを計算によって求める検索アプリを作って儲けるのが理系の典型だというような考え方である。このような考え方は時代遅れだから、私はやめたほうがいいと考える。

「文系というのは無用の用なのだ」と誇らしげに言うことで、文系を擁護しようとする大学教授を私は見たことがあるが、「無用なのだから無用なのだろう」と思ってしまって、むしろ「無用の用という仕方で文系を擁護するのは無理筋だなぁ」という風にしか感じなかった。絶対にパターンAは無理筋なので、やめた方がいい。現代では、文系は役立たずだと批判されているのに、「役立たずだからこそ素晴らしいんです」と開き直ることは逆効果である。

しかし、このように指摘されると、パターンAを反転させて、文系と理系の対を次のようなパターンBで考える人もいる。



⑵【パターンB】
【文系=イデオロギー vs 理系=価値超越】


パターンBは、文系は価値・イデオロギー的で、理系は価値超越的だという具合に考える一群の人々である。

例えば、理系は理論物理学のような、直近の未来ではなんの役にも立たないような純粋理論的なものにのみコミットしており、理論物理学がもし役に立つとしてもそれは1000年以上先であって、そもそも自然科学は自然現象に内在する諸法則を発見することによって世界を知的に理解する営みなのであるから、イデオロギーや価値とは無縁の価値超越的な立場にあるという主張を形成する仕方で理系を純粋化し、文系は政治的な権力に媚びへつらったり、逆に左翼的なイデオロギーによって駆動されているという仕方で文系と理系とを隔てるのである。

パターンBに関して、学問がイデオロギーと無縁ではありえないという基本的な洞察はまったくその通りなのだが、理系の理論だけは純粋でありうるとして特権的な立場を確保しようとしても無理筋であるし、理系の内部からも産業界との協働なくして研究は無理なのだから、パターンBでは無理筋だとして反論が出るだろう。



⑶【パターンC】
【文系=価値創造、理系=価値計算】

パターンCの人々は、パターンAとも、パターンBとも違う仕方で、文系と理系の対を捉えている。

パターンCの人々は、文系は、価値を新たに創造し、理系は、その創造された価値を最適化された仕方で味わうための計算をすると考えるのである。

例えば、大阪から名古屋まで行くのに際して、速さという観点(=速さという価値)に即して最適化された最短経路を路線図から計算する、あるいはそれを教えてくれるようなアプリ(もしくはシステム、もしくはソフトウェア)を作るのが理系の仕事で、最短経路で行くのとは別の観点(=速さ以外の価値)を創造するのが文系の仕事であるという対で考えているのである。

もっとわかりやすく言い換えてみよう。

つまり、大阪から名古屋まで行くのをあえて各駅停車にして、途中の駅で降りてご当地の弁当を食べるという仕方で味わわれることになる、最短経路で大阪から名古屋まで行くのとは違う仕方で、旅の価値を創造するのがパターンCの文系の仕事なのだ。

例えば、私の友人にこの話をしたら彼は以下のように語った。

「そもそも大阪から名古屋まで行くには、色々なルートがあるんです。①紀伊半島(和歌山)を海沿いに進んで行く行き方。②奈良の山を超えて行く行き方。③京都を通る行き方。だから、大阪→名古屋は色んな行き方があってオモロいんです。つまり、いろんな経路にそれぞれ違った楽しみ方があるんです。」

まさにこの友人のように、様々な経路で大阪から名古屋間の行程を楽しめるようになること、それどころか、今まで存在しなかったような経路を新しく発明すること。それがパターンCの文系のあり方なのである。

要するに、パターンCの人々は、パターンAやパターンBとは違って、徹底的に価値的である。私はパターンCの人々のうちのひとりである。
きょんちゃみ

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