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マチネの終わりにのharunomaのレビュー・感想・評価

マチネの終わりに(2019年製作の映画)
4.7
差延と痕跡 trace
おそらくクラシック・ギターの旋律に誰もが、なにか記憶の深奥をやさしく撫でられるような想いを抱くことはあるだろうし、この映画を思い出すときに、それはわたしなら劇伴やバッハや アストゥリアス Asturias (Leyenda) 、大聖堂ではなく、バリオスの森に夢みるが鳴り響くことになる。いまではすぐさま定額制の林檎音楽で、この映画のサントラを聴くことはできるが、彼らが記憶について話していたのとちょうど同じように、おそらくこの映画を観た者は、おのおのに大切である音楽を聴き直していたとしてもまったく不思議ではない。懐かしい年からの手紙(この映画は35mm filmで撮られている, ポジスキャンだそうです!)はそれぞれの宛先があるのだから。

わたしの人生の目的はマキノなんです」
その言葉だけでマキノファンとしては大満足であった。
わたしも実はそうです。

冗談でマキノ雅弘と言っているわけではなく、ショットのリズム、カット割りも人物の演出も、繋ぎもこきみよいカッティングのキレがいい、ドラマを中心に据えた堂々たるオーソドックスな作りとは、まさにマキノ雅弘であるだろう。そして何よりも「まなざしの映画」として役者が反射していた。見つめ合う女性二人、一瞬、あるときの石田ゆり子(洋子)の情動のえも言われぬ表情「あなたの幸せを大事にしなさい」の時、どこか藤純子の顔がよぎったのはわたしだけだろうか。


最初のマキノと洋子の切り返しから、軽い戦慄のような間を置いて、すでにお互い潤んだような眼差しで見つめあっているのだし、タクシーを待ち、何気なく親密な会話をしてしまっている彼女を振り返る時も、彼ら二人の切り返しは、観るものの胸をざわつかせずにはおかない。最初の別れ、タクシーに乗っている洋子は振り向きもしないし、サイドミラー越しにマキノの姿が画面に映ることもないが、彼らの演技とともに、想像上の余韻を、シーンの中に彷彿とさせる。
ある日友人は、ある映画を評して「あのひとは、もう二度と会えないような目をしていた」と言っていたが、メロドラマだからだろうか、そんな瞬間がこの映画にはいくつもあったと思う。「もう二度と会えないような目」別にマキノでなくとも、イーストウッドのマディソン郡やミスティック・リバー、ヒアアフターでもよい。

某テレビ局の職員でありながら、娯楽映画の職人に徹しつつ、カットを細かく割り、テイクを重ね、ある時は脚本家名すら削って脚本を書きなおす暴挙にまでも出る、執念の厳しい職人監督である
西谷弘監督は、どんな時も彼の映画は、感情のドラマと、しかるべきショットのリズムをゆるがせにはしない。

中盤、洋子のパリのアパルトマンの、月明かり(外から流し込んだ照明による逆光気味の)の中の、共感と喜び、驚きとまどいをともなった濃厚なキスシーンは素晴らしいし、そのあとの余韻もいい。スープをあたためましょうか。とか言いながら台所へそそくさと行き、火をつけている福山を、石田ゆり子はすでに恥じらいの熱をなくしつつも、スープの準備に向かう子供のように粋なこの男と自分の運命を少し笑ってしまう、かのように、キスシーンは単なる一つのシーンではなくなるだろう。
一連の反復されるエレベーター内での洋子の情動的身体も圧巻であるし、大雨、雷、フラッシュバックだけではなく、まさにあの事件(見えないテロの描写が素晴らしい)の時のエレベーターでは、緊急時の緑色のランプもあり、彼女をして、レディアサシンを思い出した(演劇の劇場を暗転して音だけで地震の描写を提示する某邦画よりマシだろうし、演出家としての心意気を感じた)

後半ニューヨークのクリスマスパーティー以降、マキノが師匠のトリビュートアルバムに参加し音楽家として復活するシーケンス。音楽とともに、それまでのマキノと洋子それぞれの4年間の変化を示すと同時に今の日常も示されていく、がクロスカッティングされていく。途中、中だるみ的な退屈さからは抜け出したと思う。
物語終盤のニューヨーク、おそらく唯一の真横からの横移動のショットから、洋子は、路上の石のベンチに座り、そのまま幼年期の実家の回想の石へと繋がれる(マッチ・カット)。一瞬空を仰ぎ、嗚咽し泣き崩れる石田ゆり子の感情には 心を揺さぶられるものがあったし、シーンの最後には、ささやかなトラックバックによってカメラは、異国の地の路上にいる打ちのめされた彼女から遠ざかるつつましさすらあったと感じた。とにかく石田ゆり子がパリのテロの日常に意気消沈しつつも、マキノを思い、物思いにふけるかのように、バルコニーの手摺りに寄りかかり外を眺めている夕方の何のことはないショットですら、カメラはじんわりと前進移動をしているのだし、何気ないショットの中にも少なからず感じ入るものがあった。

桜井ユキ。何よりこの映画では、彼女について話さなければならないだろう。この映画のおそらく半分以上は桜井ユキの女優として存在と演技と顔に掛かっていたと思う。わたしがプロデューサーなら原作を改変するだろう(平野啓一郎は未読だが)彼女の対峙する在り方は、登場シーンの少なさ以上にその存在が顔が、まなざしが重要になっていくという意味で、役柄は正反対だが『her』のルーニー・マーラを想起した(個人的にはルーニー・マーラは、ジーン・セバーグ、オルガを継ぐ女優として原節子並みに重要なのだから、最大の賛辞を桜井ユキに贈りたい。)この映画の土台の半分以上は情動的身体と冷静な見極めを必要とする日常の不穏さあるいは幸福を体現する桜井ユキにあると、わたしは受け取った。(事情により思い入れが強いので、人によっては見方は違うと思います)

マキノと洋子の二人の間にある物語の障壁は実は限りなく小さいのだが、2時間を超えてしまってはいても、ここまでやればいいだろうとも思う。音楽はほぼすべてクラシック・ギターのみであって、途中食傷気味にもなったが、まぁいい。
それにしても三角関係というか事件的な瞬間は Asturias (Leyenda) を必ずかけるのはよかったのか。よかったのだろう。
福山の空っぽの感じ(スランプに陥って人生に思い悩んでいるアーティスト)は、抑制された演技のあり方も、そして父になるより良かったと思う。抑制と飄々、アンニュイな感じでよかった。年齢相応な感じとリアリティをも感じたし、今までになく台詞回しに違和感がなかった。ここぞというときは素直にかっこいい(彼は自分でも「強引」という言葉を口にしていたが、メロドラマの「めぐり逢い」という点ではジャンル映画としてありえるし、なによりそんな空っぽの彼(彼だけが幼年期の、あるいは過去の回想の映像を持たない、厳密にはフラッシュバックはあるが映像も含め現在時にしか見えない)が、運命的な出会いに身を投げ出し、危機的な状況においても、どうにか愛する人の心を、この地上のつながりに引き戻そうとしていた。(鏡に水を吐くことやグラスを手で割る幻想、情動が彼の過去を示してはいたのだろうか)離れた場所にいる、あるいは近づけえない福山を含めた3人のカットバックはおもしろく、一度目はまだ結婚もしていないのに、子どもを抱っこしている福山の姿があった(彼は劇中二度子どもを抱っこするが、やはり福山には似合わない。)

映画の終わりに振り返ってみれば、冒頭近く、レストランのバーカウンターで主演3人が横一列に並び、一人の女性を間に挟む形でほとんどその直線のライン上で(イマジナリーラインを超えて)、手前と奥の人物を切り返していく面白さと在り方のショットには瞠目したし、パリでの2度目の邂逅と告白の場面というレストランでの決定的な切り返しの際には、シーン序盤の普通の会話のときは開いた窓の外から、片側の窓越しに、マキノと洋子を切り返していく(相手側を入れ込んではいるが、窓のガラスの反射で見えない)画は、存分に面白かった、シーン後半へ向かうにかけ(彼らの話が真面目になるにつれて)今度はドンデンで、いくつかサイズを変えてクロースアップへ向かいつつ、切り返していくあり方にも目を見張るものがあった。
ニューヨークでの終盤のシーン、女優ふたりが決定的に対峙する場面では、窓外、ガラス越しにコンテのダンスを練習する青年たちをインサートするのだが、とてもうまいと思った(ふたりの演技は素晴らしいので、観てもらうだけです)。

ラストのマキノの舞台上、最後の曲、舞台を眺める観客の目線、顔の向きからこれはブレッソンかもと期待したが、そんなことはなく、ここはクレーンじゃないほうがいいんじゃないかとも思ったが、それは本当のラストにとってあった。そうか、これで終わるのかと、またも絶妙に想像を掻き立てるような壮大な余韻に泣いてしまった。だってあれ、カメラフォローしてますよね。いやそうなんだ。これなだと。映画は大人がいれば十分である。大人の俳優を撮ろう。とにかく桜井ユキを観に映画館へ向かってもらいたい。それだけです。

冒頭(横移動は冒頭にもう一つあるらしいですね、失礼しました。ということはパリで再会する昼間、陽光の橋の上での洋子の歩く姿も含めて、横移動は三度あるということですか。すべて石田ゆり子)と、いくつかのシーンは見逃してしまったので、もう一度映画館へ行こうとおもいます。
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