Foufou

岬の兄妹のFoufouのレビュー・感想・評価

岬の兄妹(2018年製作の映画)
4.0
あのように兄妹が困窮したまま放っておかれるなどという事態がいまの日本に起こりうるのかどうか。

無知のまま社会から隔絶して生きているならまだしも、警察官の友達までいる。そうなると、どれほどリアリズムで装おうと、ファンタジーとしてこれを観るというのが正しい態度であり、『さがす』にしてもそうだが、片山慎三という人は、ケン・ローチのような社会の暗部を告発する社会派たろうとする志向はそもそも持ち合わせていない、とするのが小生の読みだが、どうか。

ポン・ジュノにしろパク・チャヌクにしろキム・ギドクにしろ(ここに『子猫をお願い』のチョン・ジェウンや『The Witch』のパク・フンジョンらを加えてもいいのだが)、程度の差こそあれ、格差社会を取り上げるのは、告発の意図が皆無とは言わないまでも、やはり物語の意匠である側面大なのではないか。少なくともラ・ジリの『レ・ミゼラブル』がマクロンを動かしたような話が半島で出来したとは寡聞にして聞かない。

こうした文脈において本作を観ないことには始まらないだろう。障害者の搾取はタブーである。それも性的搾取となれば、タブーの最たるもの。それをまざまざと見せつけられて、戸惑わない感性はおそらく稀だろう(若い時分、障害者を客に紹介するデリヘルがあって、それが人気でしかも高いというのを得々として語る友人がいて、激しく傷ついたものである)。

ファンタジーであるとこちらがあらかじめ鎧わなければ、情操を傷つけられる御仁も少なからずいるのではないか。

『さがす』を観て、久しく邦画が忘れていた俳優の身体性に焦点の当てられてあることに素直に感動した小生ではあるが、本作における身体性は、正直、エグい。頭は三歳児のまま成人した女性がさまざまな男たちに身を委ねるとき、我々を戸惑わせるのは、タブーの描写以上に、性欲に突き動かされて気を発する男たちの肉体の悲しさそのものである。遠い昔に観た原一男の『さよならCP』で襖が開いた瞬間の衝撃を、そこはかとなく思い出した。作り手のあざとさを感じるがゆえの、不快感をも含めて。

精液と大便とが画面にまざまざと映し出された邦画をほかに知らないが、もしかすると本邦初なのではないか。しかもああいう形でね。これは本当に凄まじいことだと小生なんかは思うほうで、こうした演出ひとつとっても、片山慎三という人は、撮りたいものを撮っているに過ぎないと感じられる。

『さがす』に敷衍していうなら、バラバラにした死体を収納したクーラーボックスね、あの蓋の隙間から血が滲むんですけど、ふつう殺人犯はそんな手抜かりはしない。監督がそう撮りたいんだなと、こちらは瞬時に納得するし、そうでなければ映画として面白くない、というのもわかる。

本作は、だからおのずと自主規制のかかる場面がいくつかありました。パク・チャヌクならまざまざと見せたかもしれないモノを、本作は見せきれなかった、とも言いうる。韓国と日本の社会的コードの違いによるものとも取れるが、小生は、監督自身の倫理によってそれは規制されたと見るが、どうか。

監督の倫理観は、ラストシーンに凝縮されている。あのように女を撮らなければ、立つ瀬がなかったのではないか。

露悪と見るか、芸術と見るか。しかしこの戸惑いがもうね、ポン・ジュノやパク・チャヌクやキム・ギドクを観たときの戸惑いと瓜二つなんですな。片山慎三を世界が発見する日はそう遠くない、と感じるいっぽうで、守破離でいえば、まだ守のうちなんだろうと、岡目八目を気取ってつぶやいてみる。
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