テロメア

岬の兄妹のテロメアのレビュー・感想・評価

岬の兄妹(2018年製作の映画)
4.2
好きではない、まったく好きではない。しかし、それを超えて「見せる力」が確かにある映画でした。重たい映画はある一線を超えると、清々しいものを感じる。今作はそんな一作でした。


さて、他の人の感想も気になった映画でしたので、ざっと拝見致しました。まあ、思うところの大きな箇所の「なぜ、友人らしき警官が、行政に頼れとひと言も言わないのか?」について、僕も作中、なぜ警官の友人らしき人物が、助けるでもなく、映画の筋の「最貧困になった兄妹が、知的障碍のある妹に売春させる」という流れを把握してもなお、警官として正しい道を示すでもなく、生活保護制度や障碍者支援制度を言わないのか。

ずっとそれが頭の端にあり、なぜ友人らしき人物を警官にしたんだ? 普通の(今のご時世ではその「普通」すら普通ではありませんが)サラリーマンとかにしておけばよかったのでは? とは思いましたが、警官の「お前が悪いのは足じゃなく、頭が悪いんだよ!」という感じのセリフで、もしかして、既に生活保護制度などから除外されるようなことがあったのでは? と思ってからは、そのセリフにより過去に「何かあった」のであろうと感じ、安易に生活保護制度がない=今作にリアリティがない、にはならないかと思い直しました。

というのも、映画というのはすべてを語っているわけではないし、その他の疑問は自分で埋めて楽しむ方が、より多くの映画を楽しめるというのが、自分が映画を観るときの心構えですので、これだけの意欲ある映画(なのにR15!)ですから、警官の友人らしき人物はミス設定って終わらせたくなかった、という感じです。

映画の作中での出来事はすべて正しい、とした上でじゃないと、では「なぜ警官なんだ?」というのを補完的に考えれませんから。


映画としてジャンルは違いますが、怪獣映画においてスケール問題(巨大生物は自重で潰れるから存在し得ない論)を引き合いに出し、怪獣なんていないから怪獣映画なんて成り立たない、と言って怪獣映画を観ることを放棄するより、怪獣映画の作中であったことが「あるもの」として、ではあれら怪獣たちはどのような進化をしたのか(形態進化生物学者の倉谷滋『怪獣生物学入門』とかお薦めです)、とか考える方が映画を楽しむ上では、マジレスするより、よほど楽しい映画の見方だと思うのです。


ですので、今作のマジレス「警官が友人らしきなのに、なぜ生活保護制度などを言わないのか?」というのも、何かしら言えない事情が既に映画が始まる前にあった、と考えた方が映画に入り込みやすいかと思います。

可能性の一つとして、あの田舎町にて兄妹の母親が「遠くに行った」という時期に、もしかしたら生活保護制度を受けていたかもしれない。そして生活保護制度には車の使用が禁止とあります。車の使用の制限は、もし事故が起きたとき、その損害賠償金を行政が払いきれない額になるから禁止だとか。

しかし、あの田舎町で車を日常生活以上に、仕事にて必要だとし、仕事上必要と届け出ることなく乗り、事故をした場合、違反になるわけですから、生活保護の打ち切り、並びに次回審査は違反した過去がある人は通らない可能性が高いとし、そこにドラマ性を足すならば、兄が戻ってきたきっかけが母親関連なら、危篤の知らせに慌てて思わず車を走らせ事故、とかなら物語的にもスムーズかと。

おまけとして、過去描写が少なかったので見落としかもしれませんが、兄が最初から足を引きずってなかったので、その事故以来、後遺症があるが、行政は助けてくれなかった、あるいは助けを求める手続きを知らなかった可能性がある、かもしれません。

そもそも自分が住んでいる区市町村により、役所のクオリティはまちまちですから、法律や制度があろうとも、救われなかった命はニューストピックスなどでたくさん報道されている通り。なら、この作中の役所に行っても、単にはねられた可能性も普通にある事例ですので、単純にマジレスとして「生活保護受けろよ」というだけでは、この映画を観ただけで、それ以上に踏みこんでいないと思いました。

まず、自分もそれに中盤まで引っかかっていたのですが、やはり、ヒントと感じたのが、その引っかかりを覚えた警官の友人らしき人物のセリフ「足でなく、頭が悪いんだよ!」という激昂は、鑑賞者が観始める前の作中外に「何かしらの出来事があり、あの発言に至った」と考える方が自然に感じました。ですので、あのセリフ以降は僕は「何かあったのだろう」として見ることで、映画に入り込めました。



さて、映画の作中より、作中外に「あったかもしれない」という脳内補完を長々と連ねてしまいましたが、あまりにも行政の制度などに頼ればなんとかなったはず…という希望論は、まあ観た人なら救いがあったはずだ、と考えたいのは自分もそうですが、それに固執し、さらにはそれに固執するあまり、映画もろとも否定するにはもったいないと感じたので、長々と連ねてしまいました。

しかし、作中で描かれているのは「生きるためなら倫理も法もクソ食らえ!」なわけですから(逆にいうと、作中内において彼らは彼らが生きるために倫理も法も何もしてくれなかった、とも僕は感じます)、前科までいかなくとも、過去に兄が何かしらした可能性があり、狭い田舎町ですから、うやむやにされた上で、あの友人らしき警官に「知り合いだろ、見ててやれ」的な保護観察官的な役回りがされていたならば、とか脳内補完したらあの消極的な対応もありうるかと…。



と、まあ、作中外ばかり連ねてしまいましたが、最後のあのシーンを振り出しに戻ると見るか、別の可能性と見るかで何パターンかのエンディングが、鑑賞者にそれぞれ生まれる映画でした。なら、だからこそ、オープニングも作中外に何パターンかあるのでは? と思いました。

僕の好ましい脳内補完エンディングは、妹の「お仕事」は続いているし、それは最初のループではなく、継続してしているので家で閉じ込められていた過去からの解放であり、ゆえにあのラストシーンなのかも、と脳内補完しました。


知的障碍者の生き様と生きがいを描いた「生」と「性」の物語。邦画でなかなかここまでの映画はありませんから、監督の次作も楽しみになりました。

以上です。





追記。
てか、あの煩い映倫がR15でいいとしたならば、他の監督は「もっとやれる!」と思えたかも。そういう意味でも、今作は意欲的だと感じました。今後の邦画に期待しています!
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