砂塵の作品情報・感想・評価 - 3ページ目

「砂塵」に投稿された感想・評価

西部劇ではなく、スクリューボール・コメディ。映画をジャンルで区分することに、どれほどの意味があるのか確証を持てなくても、『砂塵』を見てしまえば、誰だってこのように形容したくなるに違いない。そう断言できる証拠はいくらでも見いだせる。

事実、どうやらジョージ・マーシャルは、「距離」の概念にはそれほど関心が向いていないようなのだ。ハワード・ホークスの『リオ・ブラボー』『エル・ドラド』『リオ・ロボ』を挙げるまでもなく、西部劇は本来、ガンファイトを媒介とした二者間の距離の美学であるはずだが、牛牧場に立ち退きを迫る詐欺師のケント(ブライアン・ドンレヴィ)一味による威嚇射撃や、あるいは、保安官補佐として赴任した優男のデストリー(ジェームズ・ステュアート)が、暴れるならず者にみずからが射撃の名手であることを知らしめるかのように、看板から飛び出る小さな出っ張りを的確に狙撃したところで、撃つ側と撃たれる側の距離を把握したガン・アクションとは、とても言えまい。

むしろ、本作で圧倒されるのは、群衆の存在である。オープニングでは、町で騒がしく生活する住民の群れが長回しのドリーで撮影され、ケント組と保安官組がポーチを挟んで激しく撃ちあう終盤の銃撃戦は、ファランクスのように一糸乱れず行進する女たちの群衆がそのあいだに割って入ることで休戦を余儀なくされる。何より目を見張るのは、映画中盤、ダンスホール・クイーンのフレンチー(マレーネ・ディートリッヒ)の営む酒場で巻き起こる大乱闘だ。ドンレヴィ一味とディートリッヒのイカサマカードで大金を巻き上げられた男の妻が酒場に乗り込み、色目で夫を騙したとディートリッヒに食って掛かることにはじまる騒動は、妻とディートリッヒによる、まるで『カリフォルニア・ドールズ』の泥んこプロレスを思わせるようなキャットファイトから、仲裁に割って入ったはずのステュアートを巻き込んでの乱闘へと暴発する。酒場の野次馬たちは、香具師のようにこれを煽り、マスターに至っては、ヤケクソになったディートリッヒがステュワートを狙うために投げつける酒瓶を器用にパスし、その後ろでは中国系の男たちが物珍しそうに顔を並べて見物する。暴れ回る群衆が飽和する喧騒の空間は、西部劇的な距離の美学とは対極にあり、むしろこれを無効化する機能さえ担っているのだ。

西部劇からスクリューボール・コメディへの移行は、ディートリッヒのアクションを見ても明らかだ。怒りの矛先が女からステュワートに移行したディートリッヒは、慣れない手つきで拳銃を握り、ステュワートに狙おうとして周囲をパニックに陥れるが、なかなか手元が定まらない。業を煮やしたディートリッヒは銃をステュワートの方へ勢いよくぶん投げ、暴走する勢いのまま手元の酒瓶を手当たり次第に拾っては投げつけて攻撃を続行する。怯んだステュワートが背中を向けたと思いきや、すかさず後ろから飛びつき、まるで肩車のような姿勢のままステュワートの頭を両手で殴り続ける。いまや西部劇的な距離の美学は拳銃の投擲と共に放棄され、対立する男と女はその距離をゼロへと密着したまま、やがては愛へと落ちるスクリューボール・コメディの主題へと激しく、しかしなめらかに移行する過程が、行為の連続に明瞭に見てとれるのだ。

あるいは、ここで先ほど名前を挙げたハワード・ホークスが、本作と同時期のスクリューボール・コメディにおいて、幾度となく「転倒」の主題を反復していたことを思い出しておくのも無駄ではないだろう。『赤ちゃん教育』のケーリー・グラント、『教授と美女』のダナ・アンドリュースと同じように、ステュワートを椅子で攻撃しようと突進するディートリッヒは、彼が身をかわすと同時にバランスを崩し、豪快に転倒するのであった。ホークス映画において転倒するのは、つねに男であり、女性の優位に対する男性の劣位を物語る運動であったような機能を担っていないにしても、その脚線美で伝説となったディートリッヒの転倒は、男性・女性の非対称性といった主題などはさておき、胸のすくような鮮やかだったのは疑いない。
とらも

とらもの感想・評価

3.1
西部劇1本目

ボトルネックの町の酒場でポーカー中のケント(ドンレヴィ)とその情婦フレンチー(ディートリヒ)は一人の牧場主クラゲット(ファデン)をイカサマにはめて牧場を奪い取る。嘆願を受けた保安官キーオ(キング)が交渉に向かうが殺害される。悪徳町長スレイドはケントと繋がりがあるようで、新しい保安官に、のんだくれで誰にも従う人望のないウォッシュ•ディムズデイル(ウィニンガー)を任命する。しかしウォッシュはかつて凄腕の保安官トムデストリーの補佐官であった。彼はその息子を呼び寄せて不正に立ち向かうことにする。

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西部劇50本のリストがあったので少しずつでも古い順に見ていく。
http://matome.naver.jp/m/odai/2137404123616221901?page=1

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ここ数十年の映画しかほとんど見たことがない人間としての雑感。

・主人公が誰か定まるまでが長い。いかさま師ケント→保安官キーオ→新保安官ウォッシュ→補佐官デストリーと視点が流れる。嫌な感じとかダルいとは思わなかったけど少し戸惑った。

・悪役が3人いる。ケント、フレンチー、スレイド。フレンチーとスレイドの悪さはわかりやすいのだけど、ケントがどういう人なのか割と謎で、アップとかほとんどないから顔もよく覚えておらず(記憶力のない自分も悪い)、あんまりカタルシスが無かった。単純に西部劇の文脈をよく知らないからだとは思う。

・デストリーとフレンチーの色恋が流れを変えるわけだけど、自宅訪問謝罪で恋に落ちるのが個人的にはよくわからない。そして悪役であるのには変わりないのに普通に受け入れてるデストリー。最後射撃されるから不満も別にないけど中盤はもやもや

・最後の死ぬ間際のシーンは息遣い含めなんかグッとくるものがあった

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西部劇1本目なのに銃を持たない保安官が主人公で意外だった。意外とマイノリティへの気遣いがあって、情けないおっさん、女性性のある男、ロシア人が保安官として悪を懲らしめる話。こういうのは一般的なんだろーか。それとも既に設定をひねりはじめてるのかな

イメージとしての西部劇は勧善懲悪なので何を善とし何を悪とするかは作品を見る上での一つの軸になるはず。この作品はあとは主人公が拳銃の権力ではなくとりあえずは交渉によって正義を達成しようとすることが善となっていた。意外。

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主人公の謎のたとえ話。眠れないシェリフが眠る。
タイトルバックで、町名の看板に弾丸がヒットしまくり&町中の横移動撮影で無意味に銃乱射するキチガイしかいないワイルドワイルドウエスト感を演出してて楽しい。
街のボス役にディートリッヒだが、この頃はもう老けてる。

ディートリッヒがモノを人に向かって投げまくる動きが印象深いが、それよりも、だれかれ構わずケツを蹴りあげるアクションの方がオリジナリティーがあって良い。
あ、あと、都会からやって来るジミー・スチュワートのシティボーイ感パナイっす。まだ若く、声は相変わらずだが、顔がシャープでまるで別人。
のり

のりの感想・評価

5.0
マレーネ・ディートリッヒの美貌目当てで観たのにお釣りが出るほど面白かった。ちょくちょくコメディだし、男女問わず楽しめる。グロさもほぼなし。

ジェームズ・スチュワートは西部劇に合うのかなーと思ったけど、信念を持ったいざっていうときに頼れる保安官を見事に演じていた。

新任でやってきた保安官代理デストリー(ジェームズ・スチュワート)が腐敗した街を変えるために奔走。ディートリッヒ演じるフレンチーは街を牛耳る姉御的ボスで外様を追い出すためには手段を選ばない悪女であったがデストリーの人間性に惹かれていく。

暴力には暴力、銃には銃ではなくて法で立ち向かうデリトリーの信念は素直にカッコいい。

最後はベタな気してなんだかなーと思ってたけどフレンチーの仕草で涙腺緩んだ。
西部劇というのは米国人のなかに眠る野生の表出みたいな事なんだろうか?。
法と秩序を必要とした民衆がジェームズ・スチュアートを呼び、正義、つまりは正しくあるべき結末に向かったわけであるけど、しかし映画としての興奮はどう見てもJ・スチュアートがやってくる以前の無法状態の乱痴気騒ぎにある。そうした潜在意識下にある野生が法と秩序が確立された後の社会に異端児、暴力でもって正義を主張するダーティハリーのような存在を求めていった、と。
物語終盤に一致団結した女性陣が銃を奪おうと町の浄化のような行動に出るのだが、そこに至るまでの前置きのようなものがなく突然過ぎてちょっと異様な光景になる。しかし後のニコラス・レイ『大砂塵』はこのディートリッヒ対婦人連盟(?)の対決をミニマム化したものだった...ということか。
記録
ジェームズ・ステュアートの役が後に『リバティ・バランスを射った男』の役柄になる。

39年は『駅馬車』と『大平原』も公開された年で、この映画も同時期に公開された映画である。

西部劇ではあるが物語はコミカルに描き、ステュアートとマレーネ・ディートリッヒとの二人の掛け合いが展開する。
s

sの感想・評価

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マレーネのキャット・ファイト

レアなキャスティングの西部劇。といっても、馬を駆って先住民と戦ったりガンマン同士で決闘したりという所謂西部劇ではない。

ジェームズ・スチュワートがこれまた素直な青年で弄られて笑われているのをみるとほっこりする(笑)
リバティバランスを撃った男 に近い設定の主人公。
るろうに剣心の原型をここに見たり。
西部劇はやはり安心して観れる
酒場でのマレーネ・ディートリッヒの歌唱や最期のお別れのキスをする前にマレーネが口紅を拭うシーン美しかった…本当にイイ女です。
1939年は、「駅馬車」「大平原」「砂塵」といった作品が公開され、それまでB級あつかいされていた西部劇が一気に花開き、再び表舞台に立つようになった記念の年というイメージがある。

さてその「砂塵」(コメディとしても面白い)であるが、まず西部劇のイメージから最も縁のないスター2人を配役したのが素晴らしい。(ジミー・スチュワートはそれまで西部劇に出ていなかったはず。戦後はすっかり西部劇の主演スターになりましたが)

場末の酒場の男勝りの歌姫マレーネ・ディートリッヒと、一見頼りなさそうな副保安官のスチュワートという組み合わせも珍しいが、この2人のキャラクター造形が良く出来ている。

中盤、ディートリッヒが繰り広げる大乱闘が凄まじく、「居酒屋」のマリア・シェル(おっとこの人も同じドイツですな)級の暴れっぷりを見せてくれる。特に怒りにまかせて、銃をジミーにつきつけるシーン。そりゃ周囲の人間もビビって逃げ出すわいなという鬼気迫る演技である。

一方のジミー・スチュワートは、西部劇の主人公としては異色中の異色の人物。うらなりという言葉がピッタリなぐらい一見頼りなさそうだが、銃を持てば百発百中、頭は抜群によく、腕っ節も強く、これ以上申し分のないぐらい完璧なキャラクターである。