開明獣

ある画家の数奇な運命の開明獣のレビュー・感想・評価

ある画家の数奇な運命(2018年製作の映画)
5.0
竹橋の東京国立近代美術館で、10/2までゲルハルト・リヒター 展が開かれているのを記念して改訂して再掲。

私はよく美術館に行く。そういうと、いかつい容姿からは想像もつかぬのか、よく驚かれるが、粛々と絵と対峙している時間は私にとって心のオアシスなのだ。特にアカデミックな知識があるわけでもなく、ただいいなと思った絵の前で、遠慮がちにひたすら黙念と眺めている。身長がそれなりにあるので、なるべく他の人の邪魔にならぬよう、後ろからそっと観ていることが多い。

都内のメジャーな展覧会には、ほぼ足を運ぶ。自分には出来ぬ達人の技を堪能したいこともあるし、描かれたものが、どう自分の感覚の中で独自に咀嚼・消化せれていくのかも楽しいプロセスだ。

今回の東京国立近代美術館での「ゲルハルト・リヒター 展」では、未だ創作力の衰えぬリヒター の最新作や、フォトペインティングのリヒター としての一つの頂点、「ビルケナウ」を通して、リヒター の戦争と向き合う心を知ることが出来る。映画を観てから展覧会を観るもよし、その逆もまたよし。いずれにせよ、相互理解を深めてくれるはずだ。映画と絵画では全く異なる次元での創造の表出だが、クリエイターと相対するという意味では、鑑賞者の立ち位置は変わらないはずだ。

この映画では、主人公はリヒター ではなく、クルトという名だ。クルトは、真実は現実と連なっているから美しいと言う。私は、現実は1つだが、真実はいくようにもあり得ると思っている。それに対して真実は1つだと言う人もいる。即ち、ここには、それぞれの真実があって、合計すれば2つの真実が存在することになる。だが、真実は1つというのを否定しているわけではないから、人によっては、あくまで真実は1つなのである。よって、真実は複数でもあり、1つでもあるという奇妙な現象が生じる。まるで、同時に別の位相に出現する量子のように。異なる存在が同次元,同位相に共存することは、多様性やマイノリティを認めようという祈りでもあり、それがこの作品にはある。東西分断という悲劇を乗り越えて来たドイツ人作家だからこその認識なのかもしれない。そこには、「善き人のためのソナタ」にも流れる通奏低音のような趣がある。

例えば、19820822という数字の羅列がある。これが数字の配列というのは、厳然たる事実だ。ある人にとっては、この数字は誕生日を表しているのかもしれない。それこそは、その人にとっての真実だ。だが、ある人には忘れたいが忘れられない悲劇の数字かもしれない。例えば、強制キャンプで刻印された収容者ナンバーのように。こうして、現実に即した数々の真実があって、その美しさを描写することが、画家としての使命なのだとクルトは考えたのだと思う。つまり、この世の全てのものに美しさがある。たとえ、それが悪の体現のような存在にでも。

全裸でピアノを弾き、アー(A)の音が世界の全てを至るところで表せると目を輝かせて活きいきと語るクルトの美しき叔母は、クルトに見るもの全てから目を背けてはいけないと教え諭す。その叔母はナチスの政策によって収容所に連れ去られ命を落とす。

大きな軍事施設もないのに、報復目的として爆撃され瓦礫と化した東ドイツの都市、ドレスデン。そこが出自のクルトは、叔母の教え通り多くの悲劇や惨劇からも目を背けることなく、自らの道を切り開いていく。

自分を表現するのに信じるに足るのは、自分自身の評価だけだと恩師ヨーゼフ・ボイス(劇中では別名が使われている)から言われて、開眼への険しい道を辿っていこうとするクルト。クルトが辿った修験者のような道は、蓋し人類が辿ってきた苦難と困難の道すじのようにも思える。

もしも、私が大型自動車が集まる操車場で警笛音のトゥッテイ(総奏)を浴びることが出来るのなら、果たして万物理論を感得することが出来るのかもしれない。

この宇宙は果てしなく広く美しく、そして表現するために存在しているのだ。
開明獣

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