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ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語のKnightsofOdessaのレビュー・感想・評価

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[若草物語を再構築した枠構造の魔法]

『若草物語』七度目の映画化作品。だから是非とも『ストーリー・オブ・マイライフ / わたしの若草物語』だなんて馬鹿げた邦題は止めていただきたい。1917年のアレクサンダー・バトラー版は散逸しているので、1918年のハーレイ・ノールズ版、1933年のジョージ・キューカー版、1949年のマーヴィン・ルロイ版、1994年のジリアン・アームストロング版、2018年のクレア・ニーダープルーム版の六本が現在入手可能な映画化作品になっている。ほとんどの場合、コンコードでローリーに出会ってから小説が出版されてベア教授と結婚するまでをリニアに描いているが、本作品ではコンコード時代とニューヨーク時代のジョーを敢えて分けて描いて時系列を乱すことで、コンコード時代の姉妹は小説内の登場人物であるかのような錯覚すら与え、美化された側面もある物語を一人の女性のメモワールに昇華する(だからといってこの世の終わりみたいな邦題は正当化されない)。こうして、これまで以上にジョー・マーチとルイザ・メイ・オルコットを重ね合わせ、映画内映画に対するある種メタ的な視点を与えることで、『若草物語』そのものの再構築を図った作品なのだ。また、(意外と珍しいが)時間軸を二つに分けたため、同一役者が同じ人物を演じていることも特徴の一つだろう。

1868年。自身の小説を出版社に持ち込む次女ジョー、叔母とパリを旅行中の四女エイミー、母親としての生活に疲れている長女メグ、そして病状が悪化の一途を辿る三女ベス。姉妹は別々の場所で自らの未来を模索していた。多くの映画化作品の場合、この時代のエピソードは駆け足かつ省略的で、メグの結婚生活、ベスの死、エイミーの結婚、ジョーの小説出版と結婚だけを扱うことが多い。しかし、本作品ではそのそれぞれを1861年の挿話と間で丁寧に掘り下げることで、それぞれの人物の一貫した生き様を浮き彫りにしていく。

1861年。コンコードで暮らす姉妹は隣人のローリーに出会う。彼の存在はティモシー・シャラメの風貌そのままに、これまで以上に優男風に描かれており、彼がジョーだけでなく姉妹全員に惹かれていることが示唆されている。また、姉妹とローリーの描写も現代的な子供っぽく描かれており、厳格さが減ってフレンドリーになった母親も含めて全体的にわちゃわちゃ感が増したように思える。これが最高なのだ。しかも尺の関係で空気のように扱われることの多いベスの挿話も丁寧に描かれており、彼女の病気を通して二つの時間軸は一つになっていく。現実と虚構、辛い現在と夢のような過去という二項対立的に描かれてきた物語は、彼女の存在を以て融合するのだ。それに関連する反復は見事で、朝起きたらベスがいないシーンの絶望感は結果を知っていても凄まじい。また、ジョーと同じく芸術家を目指すも常に後れをとるエイミーは、フローレンス・ピューのお陰でより成熟した姿として描かれており、それによって早い段階からジョー、エイミー、ローリーの三角関係が提示される。

★以下、若干ネタバレしているかも

そして、大体おっさんとして描かれるフリードリヒ・ベアが憂鬱そうな顔をしたルイ・ガレルが演じることで、より若々しくなる。いつもジョーとベアの人物造形が"独身女と独身男の象徴"のようであまり好きになれなかったのだが、"売れ残りの学問オタク"という設定は影を潜めており、決して"割れ鍋に綴じ蓋"という帰結やローリーへの当て付け(スカーレット・オハラかよ)、そして小説出版の恩などを統合した奇妙なエンディングへと導かないのは評価すべきだろう。ガーウィグもこれを嫌ったのか、ベアとの結婚にはメタ的な注釈が入った上で曖昧にしている他、小説の出版は彼のお陰ではないなどの改変を行っている。オルコットの描きたかった『若草物語』はこっちだったんじゃないか。

"色々大変だったから、楽しいお話を書くわね"というオルコットの言葉を引用した上で、全く説教臭くなることなく愛情深い眼差しで姉妹を見つめ、コミカルな部分は全力で笑いを取りに行く。シリアスな部分とのバランスも絶妙。これ以上にないほど素晴らしい、何度でも繰り返し観たい作品だ。
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