ゴトウカツヒロ

ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語のゴトウカツヒロのレビュー・感想・評価

3.6
原作のダイジェス度がかなり高め。『若草物語』の物語がある程度頭に入ってる前提でガンガン来るので、あらすじくらいでも読んでいかないとついていけないかも。そういう意味では、新たな『若草物語』を提示するというよりは読み方の更新(というほど更新されていない部分もあるのだけど…)と言えるかもしれない。

何回その作品持ち出されるんだと思う古典は多々あるけど、作品によって提示された問題が未だ解消されぬまま残っている証拠でもある。『若草物語』にしたって初出は1800年代なわけで、決着しないまま百年単位で続いてる大きな大きな戦いがある。で、今回のグレタガーウィグのリメイクは予告編やポスタービジュアルに反して、決して明るいものではない…というかかなり暗い物語に思えた。次々に強いられる「敗北」や「諦め」の物語として構成されているように見えたからだ。

あらすじで四姉妹の家庭を紹介するときに使われる「進歩的な」という言葉の意味するところが、2020年と1800年代とで全く同じものではないことは明らかであるように、価値観や社会通念は常にアップデートされる(それが改善なのか改悪なのかは結局のところ誰にも明示できないのだが)。にも関わらず、四姉妹の物語が体現する問いかけは、令和の世で新作映画として公開されてもバリバリ現役で機能してしまう。この絶望を2時間かけてたっぷり見せつけられている気分になる。

その時代のメインストリームとして共有される「幸せ」の形は、必ずしも全員に当てはまるわけではない。と同時に、他人が幸せと感じていることにとやかく言う権利もない。自分とは相容れないと思っていた幸せが欲しくなることも、幸せと思っていたものを実感できなくなることもある。価値観が変わっていくゆえに生まれる悲しみもある。「アップデート」さえも敗北の理由になっていく。

「経済的な安定は度外視して愛する人と幸せになる」というメグの理想は、いつしか「貧しくても一緒にいられるだけで幸せ」という自己暗示にすり替わる。「貧しい人にも寄り添うことこそ美徳」というベスの理想は、貧しい家で感染した病気によって崩れ始める。結局は医者を呼ぶ金があるベスは延命し、貧しい家の赤ん坊は死ぬ。理想を理想として抱いていられたのは姉妹が幼かったからで、家が食うに困らぬという以上の豊かさであったからでしかない。「結婚だけが女の幸せではない」という以前に「金持ちと結婚しないと食えない」。メリル・ストリープ演じる叔母さんが言うことも、時代遅れの価値観と切り捨てることはできない。むしろ厳しい現実に折られ続けたからこそ出る言葉でもあって、そういう意味では彼女もまた敗北者である。時代や社会や経済状況とは別な、ジョーの個人的な愛でさえ実らない。それも「結婚だけが幸せではない」という理想を抱き続けたせいとも言える。理想を持つことによってもたらされる苦痛や取り返しのつかない失敗がひたすらに見せつけられる。それにしても、ティモシー・シャラメくんは人の心を振り回すダメなイケメン役を演じるために生まれてきたかのようだな。

『レディ・バード』『フランシス・ハ』のような私小説的な理想の敗北の物語よりもさらに大きい、「進歩的な」我々の理想は全部無意味なのかもしれないと思わされてしまうほどの憂鬱な終盤の展開。理想では克服し得ない最大の障害としての死に対して、「神の御心より私の心が勝つ」と言い切るジョーの言葉に涙しているのは、諦めない強さに胸を打たれているのか、どうやっても無理だと薄々感じているからなのか?パンチラインはやっぱりシアーシャ・ローナンに言わせるのね。存在感相変わらず抜群。ティモシーシャラメの結婚を知って手紙捨てるところとか泣いてしまった。

変に肩肘張らないで周りに合わせたら良いじゃない、と言うのはいつでも器用に生きている側なのであって、そんな風に生きられるなら最初からやっている。水辺でワンピースの真似して拳を突き上げて写真を撮り、ミュージックFMからデカい音で音楽を流し、『パラサイト』観た後にヤバかったねハハハ、と帰るような人の方が人生楽しいのは知ってるんだよ〜。でもできないの!「本心じゃないから言えない」って泣きながらジョーが言うのそのままなの!こんな憂鬱な『若草物語』見せられたあとでもやっぱり「本心じゃないから言えない」の!そのこだわりで幸せになれないのはもうわかってるんだけど、だからといって捨てられない。この点は、女性の生き方云々とは別に全てのひねくれ者たちに刺さるところだと思う。

とはいえ、グレタガーウィグ&シアーシャローナンに加えて、エマワトソンだローラダーン(『マリッジストーリー』のゴリゴリ弁護士が記憶に新しい)だメリルストリープだとなれば、ジェンダーロールやフェミニズムに寄った見方をされざるを得ないのも事実。映画の中でどのように描かれるか以前に、キャストで受け取られ方が限定されてしまう感じはちょっともったいない気がしたな。姉妹の共依存的なところにフォーカスしたり、ジョーの個人的な愛にフォーカスしたりもできたはずだし、実際映画の中にもそういうのが散りばめられてはいるんだけど…砂浜でジョーとベスが抱き合うショットの美しさ以外は、衣装とティモシーシャラメの美しさだったしなぁ。原作のデカさとキャストのイメージにグレタガーウィグ自身も敗北してると言えるかもしれない。原作から改変した部分にしたって、ジョーの「言われたから変えてやりましたよ」で、「映画全体がジョーの人生を再構成したものかもしれないしそうじゃないかもしれません」というエクスキューズなしではできないわけだから。ジョーが嫌々変えたという設定であれ、映画を観る人に対してある意味では媚びて傘の下のキスシーンを持って来ざるを得ないという敗北。「小説も『経済』なのね」というが、映画も「経済」だとこの映画自体が示してしまっている。ジョーがレズビアンという設定に完全に改変することもできないから、服装とかで「そうかもしれないしそうじゃないかもしれない」と匂わすにとどまってしまう。原作が持つ問いが現代でも通用しすぎるから、換骨奪胎にもなりきれずにダイジェストや時系列のシャッフルで抵抗し、負ける。フィクションの中だけでも…というタランティーノ的な優しさにもなりきれていない。一度も勝てない、なに一つうまくいかない。ここはちょっと面白い。史実を基にしたフィクションが歴史を改変するより、フィクションを基にしたフィクション、というかリメイクが(作品内の)歴史を改変するほうがある意味ではハードルが高いんだな。メイおばさんがエロくなるくらいだったら喜ばれるけど、人物設定を根本から変えるようなことはやっぱり好まれないし。

とにかく映画内でも外でも敗北感たっぷりでした。やりたいことはわかるし感動もしたけど、少し風呂敷がデカすぎたかな。「少女時代の終わり」=「理想を諦めること」をピリオドとするにはそれに至るまでが重すぎる。

結局姉妹の物語は、作中で疑問を投げかけられ、「それだけが幸せじゃない」と言われていた「お父さんとお母さんがいて仲の良いわたしたち、それぞれにそれぞれのパートナーの男」という形に収斂してしまう。そこが一番リメイクすべきところなんじゃないのか?!