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楽園のmazdaのレビュー・感想・評価

楽園(2019年製作の映画)
4.2
少女失踪事件から時が止まった人たちと負の連鎖の村。

いきなり話はそれるけど、山梨のみさきちゃん行方不明事件から1ヶ月がたって、その間にも様々な事件、政治、スポーツ、とくにあの台風があってからだな、切り替えるためにあるトップニュースのようにも感じられ、捜索打ち切りになったのもあるだろうけどあんなに毎日毎日どのチャンネルをつけてもこれでもかと報道していたのに、まるで解決したかのように聞かなくなった話題。正直行方や犯人が未解決のまま結局誰も何もわからないままの事件なんてこれでもかとある。
どんなにニュースを見て心をいためても、赤の他人の話である以上自分の日常が自然とどんどん上書きしてしまい、数十年後にはああ、あったなあ。。。なんて言われてしまう。

随分前のTwitterでのある人のバスツイートがずっと心に何故か残っていて時々ふと思い出してしまう。
「今年これから交通事故で死ぬ2000人って今何してるんだろうな」というもの。災害も事故も事件も、どんな報道があったって、今までまったく通って来なかった人からすれば自分には起きない誰かの話って思ってる人なんてあふれるほどいる。
3年前の朝霞の女子中学生監禁事件、見つかったことも後からわかった事件の経緯もとにかく驚きが忘れられない。とくに被害者の女の子が実は誘拐されて数ヶ月後脱走していたという話。近くの公園にいた人に話しかけ助けを求めようと話しかけたら拒絶されたというのを聞くと、もちろん当時行方不明なことをそこまで全国的な事件として発信してなかったのもあるけど、いかにみんな自分の周りのことだけで手一杯で、周りの人間に対して無関心なのか。別に優しくないわけじゃないだろうし、無意識な人が多いだろう。
そういう外側の人間には到底想像もつかないような、ずっと時間がその時で止まってる今作の当事者たちと"それ以外"の温度差は朝霞の事件に限らずありとあらゆる事件や災害と重なると思った。そして見て感じる自分との差にも苦しくなった。
とくにいなくなった女の子のおじいちゃん(柄本明)といなくなる最後まで一緒にいた女の子(杉咲花)の事件からたったずっと後の生活する姿は見ていて本当に辛かった。
誰のことも攻めれず、攻めれたら楽なのにっていうきもちと、そういうきもちで悪くない人間を攻める作中のいくつかのシーンを見ていて、やめてほしいと思うきもち。両方が同じくらいの量で込み上げてきて何が悪いのかもわからなくなる、感覚がおかしくなりそうだった。

どんな理由があっても結局人の命を奪う罪を決して肯定することはできないのだけど、加害者視点で描かれたものを見せられてその時その瞬間の事実やそうなる過程を見てしまえばみんな簡単には否定できなくなってしまう。
親子の関係、友達の関係、ひょんなことから、些細な間違いが、取り返しのつかない大きな過ちになる。それが誰かの心に残ったまま時間がそこでとまり続けてしまったら、その人の中でその悲しみが爆発してしまったら、その時はきっとまた誰かを傷つける。でもそうやって続いていけば完璧な解決なんて一生ないことになってしまう。世の中で起きるあらゆる事件がどこかで繋がっていて連鎖してしまってるのかもと想像した。完璧な人間なんていないというのは当たり前のことだし、安心する言葉にもなるし、時に恐ろしくもなる。

もうひとつこの映画と結びついた事件、というかつい数時間前にある記事を読んでたことで、書くのはまたそのうちでいいかと思っていたこの映画を、思い出しレビューを書いた。
その読んでた記事に北九州監禁殺人事件の話がもち出されていて、恥ずかしながらこの事件をまったく知らず、軽い好奇心で調べたWikipediaをみて正直具合が悪くなるほどショックをうけた。信じられない数の人の人生が深く絡まってぐちゃぐちゃにされて、全てがちょっとずつ繋がっていることにぞっとした。
そこに書かれてることが全てではないはずなのに、何故その人たちが被害者から加害者になってしまったかが想像できてしまって胸がきゅうっとなった。詳細に書かれた記事を読んでも、死刑判決が出たあまりにも残忍な容疑者は昔から虚言癖があり注目をあびるのが好き、サイコパスくらいしかわからなくて、なんでそんな虚言癖をもったのかとかそんな過剰に注目を集めたくなったのかとかが見えなくて、生まれ持ってそういう人間だったんだろうかと考えることはあまりにも恐ろしくて、わかった気でいて何にも実際のことはわからないなあと思った。

この映画で終盤にかけて起きるもう一つの事件の加害者が加害者になるまでの時間の流れはあまりにも静かにゆっくりと描かれて、観客の大多数は加害者側の視点で物語を見ることになる。
その事件が明らかになりメディアに出た時に、あんなにたくさん積み重ねた"加害者が加害者になった流れ"は、なんとなくそれっぽい目立つ部分、人の気をひく部分だけをピックアップして、ショートケーキの苺だけをとりましたみたいにはしょられまくってて、全部見た側からするといやもう全然違うじゃん!ってものすごく気分の悪い報道だった。
それは北九州の事件であんなに許しがたい悲惨なことを事細かに書いておきながら、容疑者がそういう人間になった過程はそこからはちっとも見えてこなかったことと少し重なった。もしかしてこれも実は何か裏にあるのかと思ったのだが、結局罪は罪だからという以外何者でもないから、必要以上に事実は発信されないのかなと思った。
それがわかった時、この映画のその事件の出来上がり方をみてひどいと感じる私の感じ方さえも間違ってるんじゃないかと思ってしまい胸がしめつけられた。ただ同時に今までテレビやニュースで見てきたあらゆる人間性を疑う人たちの背景にもそういうものがあるのかもとか考え出してしまい、罪は罪だからという裏にある罪の数にも苦しくなった。

正直救いようがなく暗く重い。映画を見てとにかく苦しく中盤から終わるまでほぼほぼ泣き続けながらみた私だって数日後数ヶ月後には楽しくわくわくさせる映画にきっと心をもってかれる。こうやってこの映画をはじめてみた時に感じた苦しいなっていういたみとか、2回目3回目には少しおさまってしまう感情なのかなと思うと、結局赤の他人の話という距離感は変えられない。でもものすごくリアルないたみだし、絶対知る必要のある感覚。同情するのは絶対に違うけど悪とされる人間にも人生があること、だから絶対簡単に手に入る情報だけを鵜呑みにするのは違うし、見えない部分だって少しでも感じとれるようになりたいし、上書きされてしまうことでも少しの間でもちゃんと何か感じれる人でいたい。この映画でそういうきもちを感じれる人間で良かったとは思った。
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