命、生きることについて
人は何故繰り返すのか。
「犯罪小説集」の映画の原作になった二つの短編は、読む人間を突き放すような容赦のなさがある。
お前たちは、考えているかと…。
もし考えているんだったら、今ここで、それは何か言ってみろと言わんばかりだ。
そして、犯罪とは一体何かと。
映画も同様に容赦なく僕達に問いただす。
ただ、病気で失われた命と、50%の確率で繋ぎとめることが出来るかもしれない命を対比させる物語も加えて、命とは何か、生きるとは何かと、別に問いかけてるようにも感じる。
人はそう簡単に人を裁くことが出来るのだろうか。
ありもしない事で、まるで罪があるように罵ったり、吊し上げたり。
悲劇的な結末など念頭にありもしない。
もし、映画を観て、クソ田舎の限界集落の村八分の話しみたいに思う人がいたら問いたい。
都会でも、会社でも、学校でも、コミュニティでも、そして、特にネットでも、似たようなことはあるよね…と。
閉塞感も、孤独も、暴力も。
そして、見て見ぬ振りもしてるよね…と。
人は取り返しがつかなくなるまで気がつかないのだろうか。
人は何故繰り返してしまうのだろうか。
原作の短編のひとつ「青田Y字路」の岐路のように、もう片方の道を選択すれば悲劇は避けられるといったものでもない。
結局は同じではないのか。
豪士にも、善次郎にも楽園はなかった。
いや、生きる希望を見出すことは出来なかった。
野上が、東京に出て働く紡に言う。
楽園を作れよ。
楽園は場所ではなく、生きる希望や、生きていこうとする心にあるのではないか。
それを失った時に、楽園も消えるのだ。
悲劇を避けるのは選択ではない。
人が生きる希望や、前向きな気持ちを失った時に、悲劇の種が撒かれるのだ。
僕達は、生きる希望を失ってはいけない。
命や、生きる希望より尊いものなどないのだ。
二つの短編を合わせて、独自のストーリーも紡いで、良い作品が出来ていると思いました。
64(ロクヨン)は、小説の展開が圧倒的に緻密で、読み手の気持ちをグイグイ引き込む物語が、映画ではイマイチ出てないなと感じていましたが、楽園は映画独自の展開もあり、役者さん達の圧倒的な演技もあり、見応えのある作品でした。