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いろとりどりの親子の小のレビュー・感想・評価

いろとりどりの親子(2018年製作の映画)
4.0
自閉症、ダウン症、低身長症、LGBTといった「違い」を抱えた子どもを持つ6組の親子を取材したドキュメンタリー。アンドリュー・ソロモンが10年をかけ300以上の親子たちのインタビューをまとめた「Far From The Tree: Parents, Children and the Search for Identity」が原作で、対象の親子はその中から選んだようだ。

自分的には親の気持ちを考える映画だった。どの子の親かは忘れたけれど「愛することと受け入れることは別。受け入れることが難しくても愛している」という趣旨の言葉が引っ掛かったから。「愛する」と「受け入れる」を同じことのように思っていたからだろう。愛するから受け入れるのではないか、と。

親の気持ちの前に障害者たちはどんなことを考えているのか。まとめると次のようだろう。

「健常者は障害を治してあげたいと思っているようだけど、障害者は(治るかどうかわからない状況で)治してもらいたいと思っているのではない。認めてもらいたいのだ」。

これは多分、心理学でいうところの「承認欲求」のうち「対等承認」と呼ばれるものではないかと思う。

健常者は障害者を不憫に感じる気持ちから、障害の要因をできるだけ小さくすることが彼らのために最良だと無意識のうちに思ってしまう。しかしその根底には自分達との「違い」を劣等に位置づける気持ちがある。

だから障害者は「違い」は劣等ではなく対等である、つまり「個性」であることを認めてもらいたいのだ。

ということを踏まえ「受け入れる」と「愛する」はどういう意味かを考えてみる。まず「受け入れる」は、辞書(デジタル大辞泉)にいくつかある意味のうち、この場合「人の意見や要求などを認める」が一番しっくりくるかな。一方、親が子を「愛する」は「かわいがり、いつくしむ。愛情を注ぐ」だろう。

「いつくしむ」とは「目下の者や弱い者に愛情を注ぐ。かわいがって大事にする」とあるから、親の愛は本質的に子どもを弱者としてとらえるのが前提なのだろう。

つまり「受け入れられないけれど愛している」というのは、一人前の人間として対等には見れないけれど、親の愛は変わらないし、むしろ強くなるということかもしれない。それは子どもにとっては残念かもしれないけれど、親子の関係が変わらない以上、どうしようもないことなのかもしれない。

親の愛は対等になりたい子どもの邪魔をするのだろうか。思い出すのが『こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話』で描かれた親子関係。障害者の息子は何かと世話を焼こうとする母親に罵声を浴びせ遠ざける。「愛したい」母親と「受け入れてもらいたい」息子の対立のようにも見える。

しかし映画(こんな夜更けにバナナかよ)で描かれているように、その背後には息子の優しさがあることは間違いない。息子は母親の「愛したい」気持ちをしっかり「受け止めている」(=「事柄の意味をしっかりと理解する。自分の問題として認識する」)。そして自分を愛してくれる親を大切に思うからこそ一人前の人間になることを目指し、親ではない他人からの介護によって「対等」になることを達成したのだと思う。

本作に登場する最後の親子の息子は、絶対に治すことのできない「違い」を持っている。彼が今後一人前の人間になるとしたら親の愛が必要不可欠だろう。それを受け止め、親を大切に思う気持ちをバネに「対等」になることを目指し、もがいていくのだと思う。

そして、親を大切に思うことは自分を大切に思うことである。このことについて、次に観た『ぼけますから、よろしくお願いします。』で考えたい。

●物語:4.0
・考えさせる。親の言葉の重みが違う。

●その他:4.0
・映画に登場してくれた家族に感謝。特に最後の家族には。
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