ニューランド

米軍(アメリカ)が最も恐れた男 カメジロー不屈の生涯のニューランドのレビュー・感想・評価

3.8
☑️『米軍が最も恐れた男 カメジロー不屈の生涯』及び『同・その名は、カメジロー』▶️▶️
この前作も含め、あまり創り手の個性が全面に打ち出される事はなく、いかにもTBSテレビドキュメンタリー的で、巧みなナレーション・低い空撮で関連場に導入・(一旦退きから入る)近親者や知人の証言・日記他書き残したもの・残ってる当人映像・社会的ニューズリール・当地のススキや月や陽の光景挟み・らが、見易く・OLや合成も入れてくみあわさっているが、へんに方向を前もって定めず肩もいからせてないせいか、フランクに実に染み入り、考えさせられ、目を見開かされ、勇気づけられる、年初に観た1女性ジャーナリストを追った森作品に劣らぬ秀作に記憶した。一本目が、導入で鋭くズームや広角も使い、今の沖縄の機運と扱う対象を直に結び付け、熱を持って人間の価値観と原動力のもつ形と美を扱うのに対し、続編の本作は前作の見せ場(二十数年の米国統治時代)以前・以後も扱い、主人公を囲む世界の変貌との相関を、ややおごそかめにゆたりと、真の力を感じさて捉えてく。共に、スッキリまた深く感動的で考えさせられる。
多大な被害(本土決戦を引き延ばす「捨て石」となった沖縄)からの解放者を装ってやって来た、そこを「占領」する「権力」を持ってしまった者(米軍・米政府)は、力を意識する事からの廻り・偽り・次の時代の恐怖(代わって本来の「民主主義」「民族」「大衆(民衆・市民)」の未来に基づき、「節を曲げず」諦めず不気味な闘いくる沖縄人民党の瀬長亀次郎への執拗な、監視・投獄・不信任操作・被選挙権掠奪・各種欠格裁定)もあって、暴力・剥き出し(「裸の」)の略奪(治外法権の暴行をしっ放し、永遠に「土地収用」して、「労働法」対象外の基地労働者と同じ、島民の「奴隷化」)に向かい、広く拡大を止めず、後付けで補強(琉球法制より上位の「身勝手な法令」)・既成事実化してゆく。征服した筈の相手に、(亀次郎の広めた)理想が根づき、鬱積した力も止められなくなると、力の支配から第一目的の確保だけ(「自由使用できる基地」)はしっかり残した委譲・戻しが始まり、その過程で手を汚さぬ恩恵得てる元・そしてまた引き受ける帰属先(安保下の「日本政府」、沖縄に不平等を押し付けた日本人)は、歪んだままを認めてしまう(戦争「悪」の根元の基地・核の存続)。権力を引き入れ、あるいはそれにあやかった時点で、「自由」からは無縁となり、自己と周囲を歪め続けてく循環と、その歯止めが内と外に現れる事。暴力装置も政治的後ろ楯もなく、「真実」と「偽りない歴史の証言」のみを持つ者が、世界の覇者に通ず「権力」側を追い詰めてゆく、牙城を崩すまでは困難も。「琉球民族」として米側が日本から切り離そうとした人たちは、本土の「日本民族」が、「自由」「民主主義」を見失って、「基地・核」を残し・押し付けた段階的(では本当はない)・形だけの「本土復帰・返還」を容認し「日本人」から離れたのに対し、自由・平和を成す真の「日本人」としての独立の気概・精神を気高く持ち続けてる(アメリカは、戦争犯罪・軍の不法に関し、ちゃんと賠償・補償もしていない。韓国の慰安婦の問題をあしらうどころではない、日本も忘れてはならないことがある)。
それらが、硬く遠くなく、極めて人間的魅力に充ちた人間(「ムシロの目ごとく真っ直ぐ迷わず」「生家近くの巨木のごとく、根を張って揺るがず」)を起点に、発せられてくる。琉球政府立法院発足の儀礼時、米軍主導に対し、議員として一人だけ、「県民にならともかく」必要なしと、直立整列無視、捺印も拒否、から気持ちいい。「ポツダム宣言」条文は理想に叶い、独立・平和・自由・民族自治に反す「SF講和条約」は悪、の割り切りもいい。佐藤栄作との国会での丁々発止の記録も貴重で、日本を正直・誠実さに代表する位置・価値が逆転する。政治にも無知で、私は沖縄の気風は、感じ続けてても、この人物について殆ど知識はなかったが、ずっと根っこの一部だったように、励まされた。全ては、「地続き」で自分に出来ることは、動き決め信じることだと、それが「団結」できると、ストレートで大きな実行力となる。
ニューランド

ニューランド