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ジョーカーのSSSのレビュー・感想・評価

ジョーカー(2019年製作の映画)
4.5
2019年の問題作。

王道エンタメ一本道を突き進むMARVELに対してDCとトッド・フィリップス監督が導き出した答えは隠し球に近い邪道なニューシネマ終焉期のような作品であった。
本作はマーティン・スコセッシ監督の『タクシー・ドライバー』、『キング・オブ・コメディ』のような社会から弾き出された主人公の物語をオマージュしており、現代社会の在り方を問う問題作とも言える。

まず前提として本作はコミックやアニメーション、実写含めて犯罪界のカリスマとして持て囃され愛される『ジョーカー』とは全くテイストの異なる"負け犬"アーサーの物語である。
『ジョーカー』のようなカリスマもなければ頭脳もない、信徒もいない代わりに介護を必要とする母親がおり、片思いの相手(勿論バットマンではない)がいる冴えない負け犬中年であるアーサーが如何に『ジョーカー』に変貌するかを体験する作品だ。

本作を臨む観客はアーサーがサイコな犯罪王『ジョーカー』になることを理解した状態で鑑賞する為、気が気でない状況に陥るであろう。さながらもうすぐ爆発することが目に見えている爆弾の前で映画を観ているような居心地の悪さを覚えながら鑑賞を強いられる作品である。

アーサーは心優しく皆を笑わせようと努力はしているが脳に障害があるが故に突然笑いだし、周囲を気味悪がせてしまう"障害者"として描かれる。
ただし彼の"障害"は分かりやすく周囲の理解を得られるものではない。(現に作中で警察からピエロが故の持ちネタかと尋ねられる)

つまり彼の突発性爆笑症候群(架空の病名)は社会において障害者として認識されない障害なのである。作中で弱者の救済を訴える"リベラル"トーマス・ウェインすらも(仕方ないとはいえ)アーサーの障害を理解せず彼に暴行を加えてしまう。

本作は"リベラル"からも切り捨てられた存在(現実における"インセル"や"キモくて金のないおっさん")である何者でもない、弱者としての認識すらされない弱者を掬い上げ、ある種存在を肯定する作品である。それが道義的に善悪関係なくそれらは主観に基づくものであり他者から定められるものではないと声高々に掲げているのである。

ハリウッド含め現代社会における富裕層への強烈な皮肉を持った本作はアイコンとして輝き続けるであろう。
アーサーの母がトーマス・ウェインに手紙を送り続けるが無視される描写は救済を求めるが富裕層からは無視される社会的弱者の姿を表している。
アーサーが長い階段を必死に登る姿は社会の底辺にいる彼がなんとか上へと這い上がろうとしている様子そのままである。ジョーカーへと変わり果てた際には楽しそうに階段を降っている姿とは対照的だ。失う物が何もない人間は社会にわざわざ食らいついてまで生きる必要はないのであろう。

おそらく本作は1999年における『ファイト・クラブ』や『MATRIX』と同じように2019年という時代を反映したカルト映画として後世に名を残す作品となるであろう。
本作に触発されたインセルが劇場型犯罪を起こす世の中になっても不思議ではない。

本作を公開することでありは"リベラル"なハリウッドにとってはマイナスになるのではないかと他人事ながら心配してしまうが本作が公開されること自体が真の意味での多様性を表しているともいえる。
本作において皆が平等などという心地の良い嘘はなく、あるのは暴力的冷徹的な社会への恨み節である。ワーナーとDCにとって『ジョーカー』というドル箱確実であろう作品で敢えてこのようなテーマで挑戦したことに拍手を送りたい。語るべき欠点の少ない良作か、それとも話題に上り論争のネタとなる問題作、後世に語り継がれるのはどちらのタイプの作品なのか我々現代に生きる映画ファンは20年後に答え合わせができるこの時代で本作を劇場鑑賞できることを幸せに感じるべきである。







オマケ(微妙にネタバレ)

旧ワーナーロゴが示すように本作は終始一貫して70's後半の映画テイストを貫いており、良い意味で現代的なトーンがなく逆に新鮮に感じる作品だ。
ただ一つだけ不満な点があるとすれば中盤におけるヒロインが◯◯であったシーンを回想を使って説明していた点。ここが非常にイマドキのビッグバジェット作品みを感じた。
ライト層を突き放すかもしれないがあのシーンはヒロインの言動のみで意味が理解できるのだから不要だったように思う。
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