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ジョーカーのnaoズfirmのレビュー・感想・評価

ジョーカー(2019年製作の映画)
4.3

悪の象徴・悪のカリスマの裏の顔🎬

ストーリーはコメディアンを目指してドン底から抜け出そうとする心優しい主人公が悪のカリスマジョーカーへ変貌する姿を描いた作品でした。こんなに切ない笑顔を他には観たことがありません。今作を通じ「ジョーカー」に対するイメージが変わりました。救われない底辺の人の崩壊をこんなに真正面から描いた作品は見たことがありません。

"ホアキン・フェニックス"
まずは今作ではジョーカー役を演じたホアキン・フェニックスに拍手です。多くの人にとってジョーカーといえばヒース・レジャーというイメージが強い中で挑んだ今作、ジョーカー役を演じるために24キロもの減量を行なった俳優魂は素晴らしいです。背中は結構大きく残ってるけど、肩から腕は木の枝のような細さで肋骨は浮き出て腹はへこんでる。顔も頬がこけているせいで、どんな笑顔も気味悪く見えてしまう。笑い方も独特で、例えていうならニワトリとかカラスの泣きまねにも聞こえるような、不快を感じさせる高らかな笑い。これを職場の更衣室からボスの部屋に移動するシーンで、笑った後に急に沈んだ表情をする所はゾクッとしました。そこからジョーカーへと変貌を遂げた辺りからは、心も体も笑わずの入られないという表情へと変化し、それが狂気じみた笑いになっている、ように見えるのも正に匠の演技。正に悲劇と喜劇は表裏一体と感じた瞬間でした。そして歴代ジョーカー役に引けを取らない、比べることは間違っているかも知れません。ホアキンフェニックス演技力は言葉では表現できないです。

"ジョーカー"
『ダークナイト』でジョーカー役を演じたヒース・レジャーは、公開を待たずして、28歳という若さでこの世を去ってしまいました。死因は、睡眠薬の過剰摂取とされているが、ジョーカー役に入り込み過ぎたことも原因の一つと言われている。彼はジョーカーの役作りを専念できるよう6週間ロンドンのホテルに閉じこりました。また、「サイコパスは話し相手がいない」と知り、外部との連絡を途絶え、ひたすら演技の練習に励み、また精神異常者のマインドを理解するために専門書を読みあさったそうです。演出としては「ジョーカーは自分でメイクをしているはず」と考えたヒースは、実際に自分の手でメイクを行いました。作中でも分かるように手にメイクの跡が残ってます。私達が知る「ジョーカー」という男の定義・存在を彼が生み出しました。そして今作、映画は往々にして、答えを簡単に出しすぎる時があると思います。『こんな体験をしたからこのキャラクターはこんな人間になった』みたいななど、でも生きるってことはそんなに浅くて簡単な事じゃないし、人間の心理ってもっともっと複雑だ。何でそんなことをするのか? 人の言動の裏側は理解できないことの方が多いし、無意識に行動に駆られる事だってある。この映画は、表面的な答えは出していません。簡単な答えが出るものなんて、この世の中に1つもないですしね。ホアキン・フェニックスだからこそ、体現できたジョーカーが映画にあったと思いました。

"正義とは?"
正義の描き方って沢山あると思いますが、それをヒーローとして描くのか、ヴィランとして描くのかでこうも違うとは、、アメコミ映画で”悪”として断罪されるヴィランたちにもそれぞれの正義があるという当たり前の話なんですよね。確かにテロリストは悪だ。でもそのテロリストを生んだのは実は大国の都合や自分勝手な正義ということです。確かダークナイトのセリフにもあった、正義と悪はコインの表裏、表があるから裏がある、裏があるから表があるから、どちらか片方が存在することはないのです。自分たちと対立する正義を描くことというのは正義のヒーローを描く上ではとても重要な条件だと思います。アメコミヒーローというのは観客側も作り手側も、彼らがヒーローであることを前提に制作、鑑賞しているから悪側の正義は描かれない。むしろ、描かない方が勧善懲悪になり娯楽になりうります。アメコミ映画としてはそちらの方が正解なのかもしれない。今作はその意味では、娯楽作に徹し切れてはいないので、娯楽中心のアメコミ映画としては疑問があります。でもヴィラン誕生の裏には多くのドラマがあって、自分は悪役の方が感情移入しやすいから『じゃあアーサーはどうすればよかったのか?』という叫び声が聞こえてきそうな内容で正義と対立する悪の描き方としてとても満足度が高い作品となっていました。

"チャップリンとの共通点"
「ジョーカー」を観て思うのが、喜劇王チャリー・チャップリンの存在です。今作でもチャップリンへのオマージュというのがヒシヒシと伝わってきました。チャップリンというと山高帽にチョビへげ、ダボダボのズボンなどが印象に残りますが、それは当時の浮浪者をモチーフにしています。現代でいえばホームレスに扮して笑いをとると考えると、なかなか差別的な笑いなのかもしれません、、チャプリン出演作の『モダンタイムス』は労働問題を描いた映画であって、機械によって仕事を奪われていく労働者の悲哀を笑いを交えて描いています。どんなに本人は至って真面目に頑張っても、最後はミスを起こしてしまいそれが原因でクビになる。その姿に観客は笑うという、冷静に考えるとなんとも残酷な笑いですよね、、お笑いというジャンルだからこそ軽く見ているけれど、描いているテーマは非常に重たいものであり社会的なメッセージ性が強い作品が多いよね。社会のダークな部分を演じ、笑いに変えるという意味では2人は同じだと思いました。

"セリフ"
今作で最も印象に残ったセリフがあります。それは「悪いのは僕か、社会か」というセリフです。幼少期の経験から「笑ってしまう」病を抱えながらも、何とか普通に振る舞い社会に溶け込もうと生活する主人公の、悲哀と狂気の階段を駆け下りていく姿を、70年代から80年代の確かに存在した鬱屈した世界観、ホアキン・フェニックスの卓越した芝居、どのシーンも心に突き刺さるような演出、そしてコメディ映画で名を馳せた監督だからこそたどり着いた不謹慎さと溢れるセリフ、これらが合わさったことで、「ダークナイト」以降語り継がれてきたジョーカー伝説にさらなるカリスマ性が高まった、非常に危険で非常にリアルな作品でした。SNSの多用により誰もが匿名で自由気ままに言いたいことを発信できる世の中になったことで、圧迫されてきた生活や環境にさらされてきた者たちの「痛み」を知ることで、自身の価値観を大きく変化させたり気づかされることがたくさんあります。素晴らしい機能を持っている反面、その利便性よりも人間や社会の膿みが可視化されてしまったことで憎しみの部分の方が独り歩きしてしまっているように感じる現在、、人の心に必ず存在する善悪は、今や徐々に開いている格差や分断によって、悪の方に傾いているように感じざるを得ない状況です。主人公アーサーは精神的な病を抱えながらも懸命に生きようと貧困ながらも努力してきました。しかし社会的弱者である彼の話など誰も聞くことはなく、自分よりも弱い人間だと思われ言葉や力で暴力を振るわれてしまう毎日。少しづつ膨らむ憎悪を、何とか笑顔と高らかな笑いで自分を抑え続けてきた彼にも限界が訪れてしまう、というもの。彼のスタンダップコメディを「誰でもコメディアンになれる」と冷笑し恥をかかせるマレー、子供を笑わせようとふざけた顔を見せるも構うなと罵る母親、今度誰かに暴力を振るわれたらこれで脅せばいいと拳銃を与える職場の同僚が、自分の職を守るために付く嘘、それを鵜呑みにして立場の弱いアーサーを切り捨ててしまう職場のボス、いたずら心から看板を奪い路地裏でアーサーを蹴り倒す少年たち、福祉サービスであるにもかかわらずアーサーの話を聞いてくれないカウンセリングスタッフ、そして街を変えたいよりよい社会にしたいといいながらも弱者たちをピエロ扱いし反感を買ってしまうトーマス・ウェイン。人に笑いを提供したいと望む彼が、生活の面ではひたすら笑いものにされてしまうという辛さをまじまじと見せつけ、周囲のその言動や行動が一体何を生んでしまうのかということを今作では見せつけていたように思えます。もしアーサーを取り巻く環境や携わる人たちがほんの少しでも彼に寄り添ってくれれば「ジョーカー」という悪は生まれなかったのではないか。誰もが一番かわいいのは自分であり、弱い立場の人に救いの手を差し伸べることをしないこんな世の中は、ジョーカーのような者たちが溢れかえっても仕方のないことにも思えてしまう。この醜くも美しい世界、いや、この美しくも醜い世界は、この映画をきっかけにさらに拍車をかけてしまうのではないか、とも。いつどこで「ジョーカー」のような男が生まれると思うと恐怖に感じました。一歩間違えば誰でも「ジョーカー」になってしまうのです。
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