ジョーカーという一回きりの切り札。ユニバースに固執しないDCだからこその傑作。マーベルにはこんな映画つくれない。
看板を盗まれ殴られ弁償しろと言われ、冒頭のシーンからもうすでにどん底のアーサー。観ていられないくらい辛い描写の数々に、感情移入せざるを得ません。
このヴィランに感情移入をさせる構図こそこの映画が危険だと言われている原因であり、ニューヨーク市警が警戒態勢を敷く理由でしょう。誰しもがジョーカーになり得るのではないかと。
実際、自分もアーサーの行動を微塵も責めることが出来なかった。正しいとさえ思ってしまっているかもしれない。でもジョーカーの言葉を借りるならこれも結局はただの主観。この映画、解釈の仕方によっては180度違う主観が生まれてしまう。トッド・フィリップスの主観が知りたいな。彼の中ではどこまでが妄想なのだろうか…
アーサーに救いの手を差し伸べてくれる人がいれば、なんて思ったりもしますが、救いの手が差し伸べられたからこそこうなったんですよね。
コメディアンとして成功し、誰かに振り向いてほしかったという点ではキングオブコメディのパプキンと一緒ですが、違うのはアーサーは振り向いてもらえてしまったというところ。それも引き金を引くことで。
貧困、障がい、母親の嘘。友達はいない、誰からも認められない。想いを寄せる人とも妄想でしか会話は出来ず、唯一の救いであったコメディにも裏切られる。でもそんな自分を称え、見てくれる人がいる。そこにしか救いがないのなら、皆んなが求める自分であろうとするその気持ちを、なんら否定することは出来なかった。
口から溢れた血を頰に引き伸ばし笑みを浮かべる姿、狂気に満ち溢れたホアキンの演技の数々をきっと忘れることはないでしょう。