マンボー

ジョーカーのマンボーのレビュー・感想・評価

ジョーカー(2019年製作の映画)
4.1
ピエロは笑いながら泣いている。

みすぼらしい人、貧しい人、冴えなく見える人々は、笑わせながら、笑われながら、本当は涙を流している。

映画が終わって照明が点き、階段を下りる人々の姿が、まるで葬式帰りの行列のようだった。

最低の気分(笑) テオ・アンゲロプロスのバッドエンドの映画を観た後や、彼の死の一報に接した時の気分に近いけれど、それよりもさらに不愉快かも(笑)

ジム・トンプソンのポップ1280や内なる殺人者、山上たつひこの光る風や、永井豪のデビルマン、ジョージ秋山のアシュラを読み終えた時に、何となくこれに近い気分になったような。

こんな大手の映画会社のいかにも作り物の映画には、普通は関心を持てない。ジャック・ニコルソンの白塗りの顔と満面の笑みは思い出せるけど、実際にはバットマンの初期作を、テレビで別のことをしながら、流すように観たくらいで、ダークナイトも観ていない。ティム・バートンの世界観は愛せるけれど、既製のストーリーや作品には、ほとんど関心がもてない。そう思っていた。

だから観に行ったのは、またもこのアプリの中での異常な評判のよさが理由で、加えて近くの映画館で、他に観たかった映画がかかっていなかったからだけど、見終わった今、観たことに後悔はない。ただ正直なところ、あまりに終始憂うつな作品だったので、観たことに感謝もさほどないのだけれど、こういう人間の心の暗部に思い至ることなく大人になる青少年がいるなら、それは大切なものを見落としていることに他ならないと思う。

貧富の差が開き、貧しい人々が暴動を起こす世界。それは資本主義社会の末期、政治がとうとう貧しい人々を切り捨てようとして、貧しい人々がやむをえず抵抗のために立ち上がる構図。古くは資本主義社会以前に、日本でも一揆や打ちこわしがあったし、世界的にもフランスやロシア等で革命があった。そして現代の資本主義社会でも、政治家が舵取りを誤り、貧しい人々を追いつめれば、こういうことが現実として間近に起こりえるとの警鐘だと思うし、ワーナーや今作に関わった映画人には、自らは富を謳歌しながらも弱者を痛めつける現代の政治体制に対する強烈な批判の意図があるのだろう。

都市型社会の冷たさ、資本主義の過酷さ、階層社会の虚しさ、本来は親身な共感による密接なコミュニケーションでこそ、それらが緩衝される。ところが都市型の生活では、コミュニケーション上手な個人以外は、なかなか孤独が満たされず、本来それを調整しコントロールをするべき政治が、不器用で一見冴えず、無力に見える彼らを見捨てて、身内の利益や私利私欲に走れば、物心ともにその差はさらに広がって、社会の均衡はいよいよ崩れ、あふれる不満が何かをきっかけに噴出し暴発する。そういう様を、過剰さや極端さによる悲劇という臭みに、独特のキャラクターを使いつつ筋立てを工夫し、それらを薬味のように効かせて、個人の悲劇的な出来事を軸に、資本主義社会の地獄絵図を、それなりに説得力を持たせつつ大胆に描いて、特にメジャー映画の世界では恐ろしくも斬新な試みだったと思う。

それにしても、こんな映画が主要な映画館でガンガンかかり、膨大な観客を集めているのは狂気じみた現象で、政治家や今あらゆる社会で権力を握る人々は、自らの行いと今から自分ができることを一度自らの行状を振り返って考えた方がいい。
そして我々一人ひとりも、身近な人々と、そして何より自分自身がどうすれば少しでも良い気分で過ごせるのかを、自らのつらい劣等感とつまらない優越感とを見定めながら、よくよく考えて行動する必要があるのではないか。そんなことをどうにも少し憂鬱な気分で、ぼんやりと考えてしまう。

中盤以降、館内の多くの人の倫理観が揺るがされて、異様なざわめきが起こり、映画館の暗闇にただ事ではない不穏な空気が漂う時間があって、こんなことはこれまでの映画館通いで初めてのことだった。

終盤、主人公が母親との関係の真実を知った時、それまでは母親との絆を唯一の拠り所として、必死に適性に恵まれているとは思えないコメディアンを目指して自虐的に人々を笑わせていたことが、ただただ無様に笑われていただけのことに、ライフワークの価値が真っ逆さまに変わる展開の残酷さも痛烈。

本当に悪夢のような映画だけれど、現実の社会が悪夢になる前に作られたことは救いだと思う。