みはしゅん

ジョーカーのみはしゅんのネタバレレビュー・内容・結末

ジョーカー(2019年製作の映画)
4.3

このレビューはネタバレを含みます

 間違いなく今年最大の問題作。この映画の持つ破壊力は恐ろしい。一歩間違えればそこは混沌。人間の中にある劣等感や悲壮感、それら全てが爆発したとき、あなたもジョーカーになる。

 今作を鑑賞後、私の心にはいくつかのキーワードが浮かび上がった。喜び、価値観、秩序と混沌、貧困、そして笑顔である。

 アーサーは自分の笑顔で人を幸せにすることが使命であり、それが自分の幸せであると信じていた。だが彼の笑顔によって笑顔になる人など彼の周りにはいない。喜びが生まれることはない。

人は喜ぶとき、笑顔になる。アーサーは劇中常に笑い続ける。だが彼の心の中に喜びや幸せはない。だが彼は笑い続ける。人前で怒りの感情を見せることはない。

何が喜びで何が悲しみなのか。人は何を基準に判別するのか。実はなんの物差しもない。全ては周りの人間たち、社会が決めた主観でしかない。

劇中後半。アーサーにとって人が死ぬことに悲しみも罪悪感もなくなっている。これもただ一人の人間による一つの価値観である。

ここで考えてみたいのは『社会という大多数に対する少数=悪』は必ずしも成立しうるのかということだ。ジョーカーは悪なのだろうか。

アメコミというのは常にアメリカの時代というものを大きく反映させている。例えばダークナイトはイラク戦争で揺れるアメリカという国自体を反映させていた。では今作はどうだろう。

 今作を鑑賞後、私の頭に浮かんだのは移民問題である。先日、とあるニュースを観た。一斉摘発により不法入国が判明し、父と子が引き裂かれ悲しみに暮れるメキシコ人家族のニュース。なぜ不法移民は取り締まられてしまうのか。それは法律をはじめとする"秩序"という大多数で共有された価値観のためである。

秩序のため、多くの人が共有する喜びという価値観のために、一つの家族が悲しみに暮れる。一方移民との賃金格差で生じる就労問題や治安問題などアメリカ国民が感じる不安もある。大多数の喜びと少数の喜び。この2つがぶつかり合うときに生まれるのは"混沌"である。

 今作では混沌を引き起こす数多くの引き金が提示されている。貧困、障害、人間関係、価値観など。社会的弱者のもつ世の中への不公平感や不満感を、今作のラストでアーサーは自らの口で全て吐き出してくれた。今作で彼が感情をあらわにした数少ないシーンだ。

『誰も自分のことなんて見てない。気にしていない。』

だが最初の殺人をきっかけに自分と同じ境遇で同じ価値観を持った人々が周りにたくさんいることを知る。そして自分の存在意義を少しずつ感じていくのだ。彼の中の劣等感、悲壮感は彼の中の秩序という価値観を徐々に破壊し、ジョーカーが誕生する。そして同時に社会は混沌に包まれる。

混沌への引き金はすぐ身近に存在し、すでに自らの心にも密かに蔓延っている。誰しも心の中にジョーカーが潜んでいるのだ。

 今作を鑑賞して、私はアーサーに感情移入ができてしまった。特に先述の魂の叫びのシーン。かつての自分を見ている様であり、背筋が凍った。

ジョーカーという言わばサイコパスが放った魂の叫びは、かつての自分の心の声そのものであった。人間の持つ負の感情、その一つ一つがいつ自分の中の価値観を破壊し、ジョーカーに変身させるか分からない。自分という人間がどんな存在なのか分からなくなってしまった。

 世界中で大きな話題と反響を呼んでいる今作。貧困問題や銃規制問題などにも派生しそうな勢いだ。今作が求めるのは現代のジョーカーの誕生や社会的混沌ではない。それはおそらくただ一つ、議論だろう。

全ての物語が終わったあと、心に蘇るセリフがある。

『人生は悲劇ではない、喜劇だ。』

喜劇か悲劇かは自らの価値観で決めるのだ。そこに周りは関係ない。そして画面に浮かび上がる

『JOKER』

の文字。ホアキンの悲壮感漂う笑い声と共に問いかけられる。

"さぁこれはただのジョークです。あなたには喜劇に見えた?それとも悲劇に見えた?"
みはしゅん

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