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ジョーカーの会社員のレビュー・感想・評価

ジョーカー(2019年製作の映画)
5.0
11/24追記しました。

母を愛する心優しい男は、いかにして狂気の殺人鬼と化してしまったのか。カリスマ的存在の「ジョーカー」の誕生までの背景を描く。


主人公は、貧富の格差が拡大し都市機能が失われつつあるゴッサムシティにおいて、貧しい道化師として、母を世話しながら懸命に暮らしていた。彼は人前でも突然笑いだしてしまうという精神疾患を患っており、周囲からは変わり者として蔑まれていた。
あることがきっかけで殺人事件を起こしてしまうが、彼にとってそれは従来抵抗することすら出来なかった社会に対する反抗の現れであり、むしろそれを機に次第に活力を得ていく。また世間の中にも富裕層に対する鬱屈した思いから彼を英雄視する意見が広がっていき、社会の混乱が加速することとなる。


これまで彼を意識的にも無意識的にも貶め踏みにじってきた人々に対する日々の怒りはもちろん、愛し信じていた人に裏切られた出来事が止めとなり、彼は狂気の階段を転がり落ちていく。いやむしろ、長い階段を降りるシーンになぞらえれば、小躍りしながらその道を自ら歩んでいく。誰の目にもとめられず、話も聞いてもらえない。ダンスシーンの数々は、そんな彼が社会からの承認、自己の実現を得る喜びの表現であると見ることができる。
終盤の衝撃的な事件の際、彼が社会に対して投げ掛けたメッセージは、決して異常者の戯言ではない。主観的に過ぎない善悪の価値基準によって身勝手に評価が下される世の中に対する違和感というものは、いずれかの側面において強者に虐げられている人々の心をうつものであった。彼の心からのメッセージは鬱憤を抱えた人々の琴線に触れ、カリスマ的存在へと祭り上げられていく。


彼はどんな環境下でもコントロールできずに笑いだしてしまう。これは幼い頃から常にいい子でいるよう、あるいは笑顔でいるよう強制されたトラウマから生じたものであると推測出来る。物語において頻発する笑いのシーンは、そのほとんどが心からの喜びの表現ではなく、意思と反して身体が振り回されるその苦しみを感じる姿は、見ていて心が痛んだ。
しかしジョーカーとして最後の目的を達成した際の笑いは、極めて自然な笑みであった。自分を偽ることをやめ、ありのままの自分を手に入れた瞬間だといえる。
ラストシーンにおいて、ジョーカーと男が画面の左右を駆け回る。まさに喜劇の典型的なシーンである。人生は喜劇だ、という彼の人生観に則り、この映画は喜劇として扱われなければならない。いくら凄惨な殺人事件のシーンを目にしたとしても、それは彼個人にとっては喜ばしい抑圧からの解放のプロセスなのである。


バットマンシリーズが人々を惹き付けてやまない理由について、正義という概念そのものに対するある種の疑問を投げ掛ける側面に加え、現代社会に実際に起こりうるリアリズムを持つことがあると考える。
ジョーカー自身は精神を患った社会的弱者であるが、それに感化されるような人々は現に今の我々のすぐ身近に存在しているのではないだろうか。様々な問題が深刻さを増している現代社会において、一度狂気が伝染した際、我々は果たして正義の心を保つことができるのだろうか。またその時我々は、彼の問いに答えることはできるのだろうか。「間違っているのは自分か、社会か。」
※「狂っているのは」でした。訂正致します。




【11/24追記】
あまりに話題になり、また心に残る名作であったため、追記。

グロテスクなシーンが多く、得も言われぬ緊張感が終始根底にあることから、初見では大きく感情を揺さぶられ、冷静さを奪われる場面が多々あった。
複数回視聴ではそうした揺さぶりは薄れるものの、心に残る名場面の価値が高まることがメリットである。階段でのダンスのシーンといった象徴的なシーンはもちろん、やはりあの複雑な泣き笑いの表情は見事である。

さて、ラストシーンのあのセリフが引き金となって方々で唱えられている、「全てがジョーカーの妄想であった」という説について、その意味を問いたい。すなわち、解釈の余地を大きく残したことによって我々は何を受け取らなければならないのだろうか。確かに妄想説の根拠は指摘されている通り存在する。しかし、単なる指摘に止まっているものが多い印象を受けた。
ある狂人の頭の中だけのストーリーであるとするならば、ゴッサムシティにおいて巻き起こったあのムーブメントは現実にはなかったこととなる。つまり抑圧された社会的弱者の声などは小さな隔離病棟の中に押し込められるべきであり、我々の社会は今まで通り平穏な日々を送っていけばいい、という、現実を暗に肯定する立場を取ることになる。それでよいのだろうか。

まず何より、現実と妄想との境目を意図的に曖昧にすることによって、見る側に緊張感や違和感が生じ、物語にどんどんと引き込まれて行くという点があげられる。我々の現実社会に確実に存在する陰鬱な部分を切り取るような舞台でありながら、一人の男が悪のカリスマへと登りつめていくストーリーである以上、やはり多少の強引さは必要であろう。その部分を効果的に覆い隠したことは、見事な演出であるといえる。

またさらに踏み込んで言えば、そうした曖昧さは観賞後もしばらく我々の心を揺さぶる一つの要因となり、彼の転落への道筋を深く考えることになる。描かれる諸問題は決して我々とは無関係とは言えないものである。謎を多く残すことにより、現実と引き合わせて考える余地が生まれ、私のレビューのような、実在する諸問題に対する注意換気という視点も生まれてくる、というのは言い過ぎだろうか。

長々と論じても所詮は映画である。作品の中で示されているように、あくまで喜劇である。まして、劇場の外の世界を忘れチャップリンを鑑賞するかつての上流階級のように、あらゆる人々が映画を気軽に楽しむことが出来る時代である。
ただ、多様な受け取り方が出来るからこそ、どう解釈すべきなのか、これからも深く深く考えて行きたい。
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