たかはし

ジョーカーのたかはしのレビュー・感想・評価

ジョーカー(2019年製作の映画)
4.7
『ジョーカー』とは社会から周縁化され、中央からは見えない人々が、自分はここにいるぞ、と叫んでいる。まさにその象徴なのだなと思った。天気の子も含め、2019年の社会を映す代表的な映画であり、今作られるべき作品だと感じた。

生まれながらの絶対悪がヴィランなのではなく、歪んだ環境や社会によって、普通の人物がヴィランとして覚醒する。その人がコントロールできない部分で、誰もが潜在的なジョーカーなのだ。というのは非常に現代的で自己反省する部分だった。

過去、アーサーのような人物がSNSで晒され、オモチャとして弄ばれるということがあった。こういう人達には何をしても許される。晒し挙げ、嘲笑の対象にしても構わないという風潮が確かにあった。
無知だった自分はその風潮に僅かながらも加担してしまった。時が過ぎ、自分でも忘れかけていたその記憶と事実を重く受け止め、とても反省した。
誰もがジョーカーになり得るし、誰もがジョーカーを生み出してしまうことを忘れずに生きようと思った。

善と悪とはコインの裏表のようなもので、どちらの側で見るかによって全く違う模様になる。
裕福で社会の中央で生きるバッドマンからすれば、社会を混乱させるジョーカーはまさに倒すべきヴィランだ。
しかし社会から無視され、周縁に存在する人々からすれば、ジョーカーは自分達の意見を代弁し、歪んだ社会に立ち向かうヒーローの姿をしている。

ジョーカーはリーダーというよりも扇動者だ。自分から大衆を先導するというよりも、ジョーカーの主張に大衆側が一方的に共感して行動を起こす。
その意味で彼はまさに混沌の時代に現れ既存の社会を掻き乱す希代のトリックスターと言えるだろう。

ではジョーカーに共感した人々は間違っていたのだろうか、それとも間違っていたのは社会の方なのだろうか。
ジョーカーは直接的な暴力で命を奪うけれど、社会は間接的な暴力で命を奪う。中心にいる人々は社会が命を奪っていることを意識さえしない。構造は物事の責任を曖昧にする。中心から周縁は見えないのだ。

生まれながらの悪に、人は共感しない。
たかはし

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