富田健裕

ジョーカーの富田健裕のレビュー・感想・評価

ジョーカー(2019年製作の映画)
4.7
希望という概念の定義や絶対条件があるのなら教えて欲しい。
やること成すこと上手くいかなくて絶望の淵に立ち「あの頃に戻れたらなあ」と愚にも付かない回想に耽ることが出来るだけ、もしかしたら幸せなことなのかもしれない。
アーサーにそういった瞬間が一分一秒でもあっただろうか。
彼はいつ、どの瞬間にまで戻れば人生を立て直すことが出来ただろう。

感情に於ける負の要素が美学にまで到達している点が、奴の奴たる所以だと思っていて、良識であったり、モラルであったり、時代の潮目に則った価値観から少しずつ外れて行く人間の有様は恐怖と同時に期待感を芽生えさせる。
成り立ってくるのが悪の権化であるという事は初めから分かっているにも関わらず、そこまでの状況であるならば一刻も早くジョーカーになってあのステップを見せて欲しいと思ってしまった。それは、アーサーの置かれた現状が見てはいられないものであるのと同時に、どこか自分自身の中にも「狂っているのは自分か?はたまた世界か?」という考え方が確実に存在するからなんだろう。

ジョーカーは決して感情的にはならず、コップで水を飲む様に人を殺め、そこには彼なりの論理がしっかりと存在するという認識でいた中、司会者マレー・フランクリンを恫喝の末に打ち殺す様に最たる恐怖感を抱く。取り乱して殺すなんて本来の彼の美学からは逸脱している筈で、あの瞬間まであの男は未だアーサーだったのだ。
アーサーとしての最期の顔が憧れの人を撃ち抜いた銃弾と共に弾けて無くなり、満を持しての真打登場。屍となったマレーに対する二発目は改めましての自己紹介と言ったところか。
絶望しか感じられない中で、ジョーカーだけが両手を広げ笑いながら天を仰ぐ様を見て一瞬で頭は現実へ。

印象に残るシーンや台詞は数々あれど、やはり初めて聞いた彼の笑い声が耳から離れない。
笑っているようで、泣いているようで、叫んでいるようで、でもやっぱり笑っている。
途中で挟み込まれる呼吸音が苦し気だった。

お前に俺の何が分かるんだ。
そこに行ってしまった悲しみと切なさ。

戻って来ようとしていたのに…。
何とかして踏み止まろうとしていたのに…。
笑うしかないのその先へと彼は走っていってしまった。
富田健裕

富田健裕