開明獣

ジョーカーの開明獣のレビュー・感想・評価

ジョーカー(2019年製作の映画)
1.0
善悪など主観でしかない。そんな妄言を信じさせてしまう、集団心理操作の怖さ。それを具現化したのが、怪物的なマーケティングが産んだ、この作品だ。アメリカでもっとも人気のあるキャラクター、バットマンからのスピンオフで、しかも史上最も有名なヴィランのジョーカーの誕生譚。演ずるのは稀代の名優、ホワキン・フェニックス。絶対に商品として外せない中で、どうすれば売れるのか、徹底的に検証したに違いない。

周到に練られたスクリプトに、魅せる演出を名優ホワキン・フェニックスの演技力を持ってすれば、人々を圧倒する映像にするのは簡単とは言えないが、計算出来たはずだ。プラスチックで出来た、ぺらっぺらのチープなおもちゃに、みんな大熱狂。作った側は、想定したノルマの採算ベースに乗って、ホッと一安心。制作側が考えてるのは商売だけ。モラルなどはかけらもない。

そして、巧みに仕組まれた安全装置。それは、ジョーカーの生い立ちだったり、格差社会での成功者の冷酷さだったり、仮想都市での擬似的な社会状況だったりする。どこかで、巧く言い逃れが出来るように設計されているが、どれもインチキだ。どんなクラスにも立派な人は一定数はいる。デフォルメを施した、正当化は醜さの極地だ。

詐欺師がよく使う常套文句に、「騙された方が悪い」というのがある。これは、100%間違っている言葉だ。「騙した方が悪い」に決まっている。踊らされたとは言いたくない。が、見事に映画という媒体を通して躍らせている。絶賛の高評価のオンパレードは、このブームに乗り遅れたくない心理も拍車をかけている。

だが、ここにあるのはなんだろうか?ただのサイコな人殺しなのに、ヒーローに祭り上げられる運命を持った男を、後付けで、心象風景だの心理的背景などで、裏付けしていく。でも、礼賛してるのは、人間が最も忌むべき行為のはずだ。なのに華麗に踊るジョーカー。あくまでも、彼を美しく魅せる演出。人殺しを英雄視にするなら、ヒトラーもムソリーニも東條英機も同じだ。物事の本質を捻じ曲げて殺人礼賛の映像で大金を得ていく大企業の戦略にまんまとはまっていく。

大阪の池田小で8人の死亡者を出した無差別殺人事件の宅間守。秋葉原通り魔事件の無差別殺人で7人を殺した加藤智大。津久井の障害者施設、やまゆり園で19人を殺害した植松聖。アーサーのやってることは、彼らと変わりないのだが、この極悪非道な殺人者達をジョーカーようなヒーローとして祭り上げたら、ここまで熱狂したろうか?論理の飛躍ではない。アーサーと、ここに挙げた鬼畜3人は、自分の意思で複数名を殺害する殺人者という点では変わりがないのだから。

個々人では、人間は決して愚かではない。だが、集団として発動すると、途端に狂気に陥ることがある。そして、いつだって、それを扇動するのは、それが自らの利益に繋がっているメディアだ。映画もそんなメディアの一つとなる。

ナチはベルリン・オリンピックの記録映画を作って、ナチスドイツ国家の素晴らしさを世界に喧伝することに成功した。見事なプロパガンダで、それを観て感動して称賛したのは、ドイツ国民だけでなく、他の国の多くの人間もそうだった。この作品はそれの類似品である。見えない形で、心に潜む悪をアジテートしているという意味では、悪質さでは、もっと上かもしれない。

大ヒットとは裏腹に、主要な映画賞レースでは、ホワキンを除いては惨敗した本作。まだ、アメリカの映画業界にも、良心のかけらが残っているのかもしれない。
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