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上映館(6館)

ジョーカー2019年製作の映画)

Joker

上映日:2019年10月04日

製作国:

上映時間:122分

4.1

あらすじ

「ジョーカー」に投稿された感想・評価

ちゅう

ちゅうの感想・評価

4.7
悲哀と狂気の笑い声。

美しいまでに孤独を背負ったダンス。

この鑑賞感は僕の力量では言葉にすることが難しいけれど、最後の暴動のシーンでcreamのwhite roomが流れた時は鳥肌が立った。
knt

kntの感想・評価

-
IMAXで視聴
迫力がすごい
バットマン詳しくなくても十分楽しめる
「悪」について考えさせられる映画
アーサーの苦悩、ジョーカーの誕生に魅力された
そのみ

そのみの感想・評価

3.0
深い。感情移入するとしんどい。
けいこ

けいこの感想・評価

3.5
ホアキン フェニックスの演技は鬼気迫るものがあり、なるほどオスカーだなと思った。
だけども、作品のストーリーはこういう展開だろうなという通りの気持ち悪さ、えぐさでどんどんと展開されくる。
アカデミー賞作品賞にノミネートされたのは、ちょっと不思議かも?
これがバットマンに繋がっていく話なんだなと思った。
こんなことあったら、そりゃおかしくもなるよねと思った。最初ジョーカーに関しての知識が乏しくて理解できる自信なかったけど、観たらそこの知識は必要なかった。ジョーカーとかジョーカー支持者からしたらこう思われるのは不本意かもしれないけど個人的には可哀想という印象。どうでもいいかもしれないけどジョーカーってジョーク+erでジョーカーなんだね。ちょっとツボ。
きら

きらの感想・評価

-
私の読解能力が落ちてるのとアメリカ社会への知識不足で全く面白さが分からなかった悔しい
takuto

takutoの感想・評価

4.2
重く悲しいストーリーだった。
狂喜乱舞ー
人間理解の深い人ならば、周囲を見渡したり自身を深く見つめたうえでおそらく皆そう思うように、この映画もまた、善から悪へという二元論的な対立と傾斜を描いたわけではありません。

ほんとうは単純に自身の欲望を達したいだけにも関わらず、様々な言い訳をほどこしながら同じところをグルグルと回っている、自称・複雑な人がしばしば口にするような意味で、世界がもっと複雑だからでもありません。

それは、呆れ返るほどの幼児性を発揮しているに過ぎません。

むしろ世界はずっと単純にできている。複雑に思えるとするなら、曇った目の曇りを拭えていないだけかもしれません。そして映画をはじめとするあらゆる表現は、倫理の裂け目を描くことはあっても、道徳を説くものではない。

映画を観終わったとき、アーサー(ホアキン・フェニックス)の撃った拳銃の重みや血生臭さが、自分自身の手の内にはっきりと残る。そう感じさせる力がこの作品にはありますし、またその感触が残らなければ、映画体験としては嘘だろうと思います。

そうした素晴らしさを感じるいっぽうで、この自明すぎるほどの自明さを、どれだけの人が分かっているのだろうと少し不安になります。その自明さを理解できない人間は、必ずといっていいほど、幼稚で無自覚な暴力性をどこかで発揮するからです。

映画の価値を道徳的に裁くような人は、現実の価値を暴力的に裁いてしまう。スターリニズム(Joseph Stalin, 1879-1953)がどういうものであったのかを知らずとも、学校生活のなかで味わことになる様々な理不尽(カーストであれ、同調圧力であれ、いじめであれ)は、僕たちにそのことを教えてくれたはずです。

それでは、この映画の素晴らしさはどこにあったのでしょう。

小林秀雄(Hideo Kobayashi, 1902-1983)の批評作品に『当麻(たえま)』というものがあります。新潮文庫『モオツァルト・無常という事』のなかに収められた、わずか5ページにも満たない評論ですが、たいへん有名なフレーズが出てきます。

美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。

名文とされていますが、それよりも何よりも、小林秀雄の批評の核心を自ら端的に述べているもののように僕には思えます。つまり彼にとっての芸術とは、1)その表現(花)に感動するものであるいっぽう、2)感動を解き明かす(美しさ)ことはできないため、3)表現を生み出した作者の実存(その時その場所の体験)に迫るしかない。

小林秀雄が、まるで最新作であるかのように、古典作品を語り得た理由はここにあります。また彼は、こう続けます。

肉体の動きに則(のっと)って観念の動きを修正するがいい、前者の動きは後者の動きより遥かに微妙で深遠だから(と『当麻』の作者である世阿弥は言っている:()は筆者註)

この『ジョーカー』でもまた、最も感動的なシーンは、アーサーの生い立ちやロマンが1つ1つ潰されていく自意識の葛藤よりも、彼の踊りにあったように思います。また、同じメイクであっても、ピエロからジョーカーへと意味合いを変えていく様子なども、まさに「能」のお面のようでもあります。

もちろんピエロのメイクは、アーサーが階段で踊るシーンで印象的に用いられる音楽(ゲイリー・グリッター『ロックン・ロール パート2』)が、化粧して演奏するスタイルを生んだグラムロックであることと響きあってもいるものの、それは知識的なものに過ぎません。

本質的には、同じものが別の角度からは正反対のものに変容して見える、その両義性にこそあります。

強迫症のように病的な笑いが生じるシーンもまた、この両義性を物語る装置となっています。最初のバスでの発作は、あくまでも「疾患(I have a condition…)」として描かれますが、ジョーカーとなっていく地下鉄のシーンでは、別の装いを帯びていきます。

ですから、善から悪へという二元論的な対立と傾斜ではなく、同じメイク、同じ発作、同じ踊りが、アーサーという同一の自意識の「外側」で刻々と変化していくその両義性にこそ、この作品の深い感動があるのだろうと思います。

外側の道徳から見て「善」と見えたり「悪」と見えたりしようとも、アーサーの中での倫理は、何一つ変わってはいません。ただし、倫理の裂け目は描かれます。

ここでいう「道徳」とは社会的な価値判断であり、いっぽう「倫理」とは、そうした価値判断よりも以前の、個人的な行動規範という意味で使っています。僕/あなたという固有の生を生きる最前線の現場では、「道徳」よりも「倫理」のほうが強い力を持ちます。

アーサーにとっての「倫理」とは、父なるものから承認されることでした。

しかしながら、1人はバットマンとなるブルース・ウェインの父親トーマス・ウェインに、もう1人は憧れのコメディアンであるマレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)に、想いを裏切られる形で倫理が崩壊します。

その倫理の裂け目から、アーサーがたぐり寄せたのは、自身が父なるものとなることでした。そのためには、光と影の関係のような闘争相手が必要となります。作品の時間軸でいえば、未来の話となる『ダークナイト』(クリストファー・ノーラン監督, ジョーカー:ヒース・レジャー, 2008年)で、ジョーカーがバットマンにこだわる理由は、ここにこそあるように僕には思えます。

映画のラスト近くで、ジョーカーとして捕らえられたアーサーが「何が可笑しいの?」と尋ねられ、「あんたには理解できないさ」と答えるシーンがあります。これはおそらく、アーサー自身にも理解できていないことのように思います。

宿命を生きる人がいる、人が生きる宿命という様なものはない。

宿命の渦中にある人間が、ぎりぎりの生のうちにつく吐露は、いつだって理解などできないものなのでしょう。僕にとっての『ジョーカー』は、そのことを伝えてやまない映画でした。
キョ

キョの感想・評価

4.2
誰が悪いと一概に言えない点が一番のポイントである気がした
ジョーカーはジョーカーになるべくしてなったのだなと狂人へと成っていく過程がもはや綺麗であんな状況に置かれたら誰だってああなってしまうような気がして更に怖かった
悲劇のような喜劇のようなしかし後味は悪い作品
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