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ジョーカー2019年製作の映画)

Joker

上映日:2019年10月04日

製作国:

上映時間:122分

4.0

あらすじ

「ジョーカー」に投稿された感想・評価

umajlg816

umajlg816の感想・評価

4.8
とても好き。ストーリー、カメラ、色彩、音楽、全てがトップクラス。
所々タクシードライバーのオマージュが入ってて面白かった。
uringo

uringoの感想・評価

4.0
これ2回観たけど、ホアキンフェニックスがすごい。ほんとすごい。

テーマとか考えるとあれだけど、
マンガ(って言っていいのかな、バッドマン)をこの演出と演技で撮るのすごい。ヒューマンドラマ。

ホアキンがリバーフェニックスの弟と知るまでまったく興味なかった映画だけど、ほんとに観て良かった!!
観たいようで観たくないような気分で鑑賞。

やっぱり、途中からもう怖くて怖くて。
ホラーの怖さではなく、もっと奥深くにある人間の怖さ。

もっと最初からとことんぶっ飛んだ人かと思っていたら、そんなことなくて。どんどん少しずつ壊れて剥がれて狂気が剥き出しになっていく。ただただ怖い。

彼だけが悪いわけではなく環境がそうさせたところも。でもあの核となるあの人としての狂気を持っていなければあんな風にはならないとも思う。

目を瞑るとホアキンが踊るシーンが浮かんでくる。それも無音で。

このレビューはネタバレを含みます

光と陰の使い方で心がえぐられた。
解放されているんだろうなというシーンにことごとく美しい光が差し込んでいてしんどかった。でも何かを見つけたんだよね。解放されているのを見るとうらやましい。

町山さんが『ダメな人間に優しいのは映画だけ』的なことを言ってたってどっかで前に見たけど、『だけ』かは置いておいて、めちゃめちゃたくさんの映画がある中で、本当に映画に救われている人って多いとおもうし、どんな映画でも誰かを救っているかもしれないな〜!と思うので、今後も攻撃的なレビューはしないように気をつけようと、おもう!





っていうのが観てすぐに書きなぐって下書き保存しておいたレビューで!

1000マーク目は刺さりまくった映画にしようと思っていたのでがんばって調整した😋マークする映画ためといてよかった笑
ぱるま

ぱるまの感想・評価

5.0
正直映画館でなかったら共感性羞恥心で逃げ出したくなるシーンもあった
でもjokerとして覚醒?解放?されていくアーサーから目が離せず、ものすごいカタルシスを感じた
映画内の善悪やモラルは置いておいて、自分にとって救いをくれる映画だった
まじで、ひたすらに哀しくて切ない。
DCコミックス系は重くて暗い雰囲気を共感しろ!っていってくる作品が多い気がする。
(バットマンがそもそも重くて暗いのか)

あとはこの人はジョーカーなのか、もしかしてジョーカーを演じてるのか。
もえち

もえちの感想・評価

3.6
なんかすごく悲しかった。
人殺してるのに、応援したくなる。

バットマン観たことないけど、見入った。
トマカ

トマカの感想・評価

4.0
ジョーカーの身勝手な思い込み、嫉妬や自己憐憫、どうしても共感したくなかった。それでもどんどん映画に引き込まれ気持ち良くなる、この感情はなんなんだ?社会の分断が世界的な問題となっているけれど、自分はどちらにも加担したくないと思った。そんな危険な魅力がある映画だった。
bluesmoke

bluesmokeの感想・評価

4.0
人間理解の深い人ならば、周囲を見渡したり自身を深く見つめたうえでおそらく皆そう思うように、この映画もまた、善から悪へという二元論的な対立と傾斜を描いたわけではない。

また、ほんとうは単純な自己愛を満たしたいだけにも関わらず、同じところをグルグルと回っている自称・複雑な人がしばしば口にするような意味で、世界が複雑だからでもありません。

むしろ世界はずっと単純にできている。複雑に見えるなら、曇った目の曇りを拭えていないだけだろうと思います。そして映画をはじめとするあらゆる表現は、倫理の裂け目を描くことはあっても、道徳を説くものではない。

映画を観終わったとき、アーサー(ホアキン・フェニックス)の撃った拳銃の重みや血生臭さが、自分自身の手の内にはっきりと残る。そう感じさせる力がこの作品にはあるいっぽうで、この自明さを、どれだけの人が自明と捉えているのかと少し不安にもなります。

このことを理解できない人間は、必ずといっていいほど現実世界で、幼稚で無自覚な暴力性をどこかで発揮するからです。

映画の価値を道徳的に裁くような人は、現実の価値を暴力的に裁いてしまう。スターリニズム(Joseph Stalin, 1879-1953)がどういうものであったのかを知らずとも、学校生活などで味わう様々な暴力(カーストであれ、同調圧力であれ、いじめであれ)は、僕たちにそのことを教えてくれたはずです。



それでは、この映画の素晴らしさはどこにあったのでしょう。

小林秀雄(Hideo Kobayashi, 1902-1983)の批評作品に『当麻(たえま)』があります。新潮文庫『モオツァルト・無常という事』のなかに収められた、わずか5ページにも満たない評論ですが、たいへん有名なフレーズが出てきます。

美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。

名文とされていますし、また小林秀雄の批評の核心を端的に述べているもののようにも思えます。つまり彼にとっての芸術とは、1)その表現(花)に感動するものであるいっぽう、2)感動(美しさ)を解き明かすことはできないため、3)表現を生み出した作者の実存(その時その場所の体験)に迫るしかない。

小林秀雄が、まるで最新作であるかのように、古典作品を語り得た理由はここにあります。また彼はこう続けます。

肉体の動きに則(のっと)って観念の動きを修正するがいい、前者の動きは後者の動きより遥かに微妙で深遠だから(と『当麻』の作者である世阿弥は言っている:()は筆者註)

この『ジョーカー』でもまた、最も感動的なシーンは、アーサーの生い立ちやロマンが1つ1つ潰されていく自意識の葛藤よりも、彼の踊りにあったように思います。また、同じメイクであっても、ピエロからジョーカーへと意味合いを変えていく様子なども、まさに「能」のお面のようでもあります。

もちろんピエロのメイクは、アーサーが階段で踊るシーンで印象的に用いられる音楽(ゲイリー・グリッター『ロックン・ロール パート2』)が、化粧して演奏するスタイルを生んだグラムロックであることと響きあってもいるものの、それは知識的なものに過ぎません。

本質的には、同じものが別の角度からは正反対のものに変容して見える、その両義性にこそあります。

強迫症のように病的な笑いが生じるシーンもまた、この両義性を物語る装置となっています。最初のバスでの発作は、あくまでも「疾患(I have a condition…)」として描かれますが、ジョーカーとなっていく地下鉄のシーンでは、別の装いを帯びていきます。

ですから、善から悪へという二元論的な対立と傾斜ではなく、同じメイク、同じ発作、同じ踊りが、アーサーという同一の自意識の「外側」で刻々と変化していくその両義性にこそ、この作品の深い感動があるのだろうと思います。

外側の道徳から見て「善」と見えたり「悪」と見えたりしようとも、アーサーの中での倫理は、何一つ変わってはいません。ただし、倫理の裂け目は描かれる。

ここでいう「道徳」とは社会的な価値判断であり、いっぽう「倫理」とは、そうした価値判断よりも以前の、個人的な行動規範という意味で使っています。僕/あなたという固有の生を生きる最前線の現場では、「道徳」よりも「倫理」のほうが強い力を持ちます。

アーサーにとっての「倫理」とは、父なるものから承認されることでした。

しかしながら、1人はバットマンとなるブルース・ウェインの父親トーマス・ウェインに、もう1人は憧れのコメディアンであるマレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)に、想いを裏切られる形で倫理が崩壊します。

その倫理の裂け目から、アーサーがたぐり寄せたのは、自身が父なるものとなることでした。そのためには、光と影の関係のような闘争相手が必要となります。作品の時間軸でいえば、未来の話となる『ダークナイト』(クリストファー・ノーラン監督, ジョーカー:ヒース・レジャー, 2008年)で、ジョーカーがバットマンにこだわる理由は、ここにこそあるように思えます。

映画のラスト近くで、ジョーカーとして捕らえられたアーサーが「何が可笑しいの?」と尋ねられ、「あんたには理解できないさ」と答えるシーンがあります。これはおそらく、アーサー自身にも理解できていないことのように思います。

宿命を生きる人がいる、人が生きる宿命という様なものはない。

宿命の渦中にある人間が、ぎりぎりの生のうちにつく吐露は、いつだって理解などできないものなのでしょう。僕にとっての『ジョーカー』は、そのことを伝えてやまない映画でした。

このレビューはネタバレを含みます

地位や名誉のある者の死には人々は悲観し、そうでない者の死は取り立たされず、人知れず死んでいく。
そんな社会に悲観したジョーカーは怪物になっていく。