140字プロレス鶴見辰吾ジラ

十二人の死にたい子どもたちの140字プロレス鶴見辰吾ジラのレビュー・感想・評価

2.0
【偽善者】

僕は
エドワード・ノートンの
脳髄です。

地味な映画だったという意見が多いが私はポスターの構図からガヤガヤ、ギャーギャーと騒ぎ立てる映画かと思っていたので、各人物わかりよく静かなノット学級崩壊映画だった。キャラクターを没個性にしないよう病人、ギャル、ヤンキー、ゴスロリ、吃音、マスク…とキャラを作ってきてるが、あまりにステレオタイプすぎて没旺盛。特に私は吃音なので、舐め腐った吃音しゃべりにキレてた。

「SAW」的な
シチュエーション

“アガサ・クリスティ“的な
ミステリー要素

「キサラギ」的な 
会話劇

様々な要素を掛け合わせて割り算方式で映画初心者向けにしているが、騒ぎ立てる下品さが少なく好感な面とマイナスな面の勘定が赤字になっている。

若者の誰しもが抱える孤独感をネットという匿名性で繋げる現代的な十二人の円卓模様は、病理的社会に対してメッセージを唱えようとして言葉に詰まっている。

映画という映像媒体であるがゆえのミステリー要素解消、つまりはトリックの説明は妄想の域を出ないが、思わせぶりなミスリード的伏線をタバコのポイ捨てのように拾わない感覚が宙を舞う。

詰まるところ暴力性を解放させる勇気のない「ファイトクラブ」だし、だったら「存在のない子どもたち」を見なさいよ!で結論がついてしまう。真剣佑の喋り方は良かったし、初めて橋本環奈に魅力を感じた。

ただあそこにいた十二人は現代社会において安楽死を求めていることを上塗りされてしまうのがエンターテインメント的社会病理のひとつなのだと思う。

人は死を背後に背負うと生の実感を欲して、目の前の生存本能に正直になる。終わりまで行ったときの生へのエンターテインメント的偽善感が舗装した道をどこへ向かうのか?

僕は 
エドワード・ノートンの
脳髄でした。