サマセット7

蜜蜂と遠雷のサマセット7のレビュー・感想・評価

蜜蜂と遠雷(2019年製作の映画)
3.8
監督・脚本・編集「愚行録」の石川慶。
主演「勝手にふるえてろ」「万引家族」の松岡茉優。
原作は恩田陸による同題のベストセラー小説。

国際的に注目を集める芳ヶ江国際ピアノコンクール。
かつての天才少女栄伝亜夜(松岡)は再起をかけてコンクールに参加する。
一次予選では以前の輝きを見せられなかった亜夜だったが、3人のコンテスタントとの出会いが彼女の演奏を変えていく…。

原作小説は直木賞と2017年本屋大賞をダブル受賞した傑作小説。
ピアノコンクールを舞台に天才たちが相互に影響し合って才能を引き出し合う様を描いた。
作者である恩田陸は、何とも言えない切なさや懐かしさを伴う叙情的な情景描写や心情描写で知られる作家。
今作の原作小説では、その腕前を発揮して、「天才たちにより演奏される至上の調べ」を叙情豊かな筆致で言葉により表現し、音楽小説の傑作と評された。

今作は、原作で言葉のみによって表現された世界、特にその音楽を、正面から映画として描くことに挑戦した作品である。
そのある意味無謀な挑戦は、丁寧に積み重ねられた製作努力によって、成功している。

まず、今作では亜夜、マサル、塵、明石の4人のコンテスタントの演奏が描かれるのだが、彼らのキャスティングは、俳優たち以前に、演奏を担当するピアニストたちから決定していったという。
選ばれたピアニストも、国際的に活躍する若手ピアニストの中から、原作で描かれた演奏に近い演奏のできる人物を選りすぐった。
その結果、今作で聴くことができる演奏は、まさに現状考えられる最もリアルな「天才たちによるピアノ演奏」となっている。

また、原作で登場する「春と修羅」という新曲は、映画化にあたって、作曲家藤倉大により原作のイメージを忠実に再現する形で作曲されている。
原作ファンとしては、宮澤賢治の世界観を表現したという曲が、「実際には」どのような曲なのかを存分に味わうことができる。

このように、まず何よりも「演奏」自体に注力しているが故に、今作では演奏の説明や解説はほぼ廃されている。
補足的に、聴衆である俳優たちの表情や演奏時に挿入される映像(走る馬、連弾する母子など)で、そのニュアンスが伝えられるのみである。
演奏を聴けば、その凄みは伝わるだろう、という製作陣の自信が窺える。

4人のコンテスタントを演じる俳優のキャスティングも、原作の雰囲気にピタリと当てはまり完璧である。
各自の演技もまた素晴らしい。
特に、表情の微細な変化で、感情の揺れ動きを表現して見せる主人公役の松岡茉優の演技は抜きん出ている。

こうして積み重ねた製作努力の末、表現された音楽は、取捨選択され整理された物語の流れの中で、たしかに観客の心に響く。
特に、2人の天才の感応を表現しどこかエロチックですらあるドビュッシーの月の光から始まる月夜のピアノ連弾。
明石の奏でる生活者の音楽としての「春と修羅」。
塵による悪魔的な才能の発露としての「春と修羅」。
マサルの迷いを吹っ切ったプロコフィエフのピアノ協奏曲第2番。
これらはそれぞれ印象的だ。
そして何よりラストの亜夜によるプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番。
他のコンテスタントとの交流により、真の才能を開花させた亜夜の会心の演奏は、それまでの松岡の迷いや悩みの演技のレベルが高いだけに実に感動的である。

今作のテーマは、世界からの授かりもの(gift)としての人の才能の在り方にあろう。
雨の音、海の音、そして遠く鳴り響く雷鳴など、自然の音響が幾度となく描かれるが、音楽が世界の一部であること、音楽に関わる人の営みも世界の一部であることを示唆している。
また、凡才と自嘲し「あちらの世界」のことは悔しいけれど分からないと述懐する明石の演奏が、亜夜や塵の演奏に大きな影響を与えたことは、明石もまた世界の一部であることを示して象徴的である。

長い原作の書き込まれた物語を映画で完全に表現することは到底不可能であり、若干説明不足やディテールの欠如が目に着くことはやむを得ないと言えよう。
例えば、天才風間塵が養蜂家の父親の下で採蜜の移動の旅をしながら育ち、蜜蜂の羽音に音符を見出していたなどという世界と才能の関係を示すエピソードは、映画ではカットされてしまっている。
そのため、原作未読の方はタイトルの意味に???となるだろう。
また、生活者の音楽を奏でた苦労人高島明石の顛末に関する原作での重要な描写が、映画ではなぜかカットされてしまっており、彼に関するニュアンスが決定的に異なってしまっている。
この辺りは、原作を参照して、改めて今作の豊かな作品世界を楽しまれることを推奨したい。

音楽という題材に、真剣に向き合った力作。
原作読者としても納得の出来であった。
ベストセラーの映画化という意外と難しい仕事を見事にこなした石川慶監督には、今後も注目したい。