カルダモン

ウエスト・サイド・ストーリーのカルダモンのレビュー・感想・評価

4.7
眼が眩む光の束と、血の通う音楽に酔いしれた2時間半。私が特に驚いたのはライティングの技術でした。未知との遭遇かと思うほどにビカビカに輝く世界はほとんどサイケデリックの様相で、ちょっと異常なくらいの精神的世界、あるいはその時代に生きた人々の魂を現在に噴出させるようでした。

自然光が綺麗に撮影できるようになった現在において不自然なライティング技術はもう不要になってしまったのかと思いきや、今作ではむしろはっきりと街や人の呼吸であったり絶望の陰や希望の光を描き出す装置として機能しており、照明ひとつで劇的にドラマを語ることができるのだという力強い画面の圧力、その凄みを改めて思い知りました。言葉での説明はなくても視覚から直感的に受け取れるというのはちょっとした魔法のようなもので、撮影監督のカミンスキーは意図的に不快にも思うような視覚的要素もライティングに込めていると言います。

音楽はオリジナルの1961年版と比べて格段に音がゴージャスになっている印象。どの曲も素晴らしいけれど、一曲挙げるなら『Tonight(Quintet)』。オリジナル版でも頭ひとつ抜けているシーンでしたが、今作ではより想いが複雑に絡まり合って真に迫る感覚でした。ジェッツとシャークスの抗争と、アニータがベルナルドとの素敵な夜を心待ちにする気持ち。マリアも出会ったばかりのトニーに早く会いたいと願う。きっと素敵な夜が待っているという想いと、一つの決着をつけなくてはならないという不穏な予感が交差する。楽曲が持つ複雑な構成は映像にもリンクして、場面と場面が多層的に重なりあい、擦れ違い、それぞれTonightの一点に向かう。映像だけでも音楽だけでも成り立たない、音と映像の劇的な高揚感に鳥肌が止まらなかった。

悲劇的な物語の吸引力、たった一日しか経過していないのに二人の距離の詰め方は異常だし、あの感情の起伏は現実では起こり得ない。けれども映画や芝居の中でならウソもホントになる。まるで一日が一年のように、十年のように、永遠のように感じさせることだって可能。映像と音楽と役者によってうまれた映画のマジックを観るような体験。映画って嘘が上手だな。っていうか素直にスピルバーグ凄いなと思う。途中からリメイクだということを忘れていました。






以下は細かいことをぐだぐだ。

ダンスパーティーで入り乱れるジェッツとシャークス。所在なげにしていたチノがたまらず体を揺らしてど真ん中に躍り出るとこ最高。少し恥ずかしそうにマリアを誘い二人で踊る束の間が愛おしい。結末を知っているから尚更ここで全てが終わってくれればいいのにと思ってしまう。なのにマリアとトニーときたら。言葉よりも先に踊りを交わす二人。この出会いのシーンは鳥の求愛行動のようで笑ってしまった。ところでこの二人の身長差すごいですよね。アンセルは193㎝、レイチェルは157㎝。画面で見ると親子かな?と思うほど。映画のポスターもバルコニーの上にいるレイチェルと顔の高さ変わらんもんね。もう少し身長差がなければバランスが良かったのにと思わなくもない。


61年版では夜のアパートの屋上で歌われた『America』が、今度は太陽降り注ぐ街に踊り出す。アニータを演じるアリアナ・デボーズの高らかな声と希望に満ちたダンスが男衆を圧倒していく姿がカッコ良すぎる。

腰より低いローアングルで真横から捉えるダンスシーン。60年前のオリジナルにあった迫力ある超絶カッコいいショットが継承されていて感動。

61年版でアニータを演じたリタ・モレノ(91歳)の役どころが興味深い。自分がかつて受けた仕打ちを目撃することによって過ちの繰り返しが強調されていた。この瞬間だけ時代は現代となり、昔話ではないと意識する。


メインキャストであるアンセル・エルゴートとレイチェル・ゼグラーは堂々たるものだったけれど、それ以上に脇を固めるジェッツやシャークスのメンバーがみんないい顔していて素敵だった。住む場所を追われるポーランド系とプエルトリコ系。街がキレイに生まれ変わる頃、彼らはどこにいるんだろうか。