「見てはいけない」映画を観る
取り敢えず思い出したのは、「○○したら死ぬ」系の映画は置いといて、『ブラインドネス』『ハプニング』『ゾンビ』『ルーム』『激流』『ソフィーの選択』(あ、どっちもメリル・ストリープだ…。)
「見」どころの多い映画だということだ
そもそもの発想が「低予算映画」っぽいというか…「モンスター映画やりたいけどモンスター造形にあてる金が無い…そうだ!見たら死ぬ設定にして、画面に映らない事に必然性持たしたろ!」みたいな
そんなコスパの良い設定を決して安くない予算でやる事で生まれる「余裕」は、ヒューマンな寓話としての作りに表れているのか(まあ、関わってるスタッフを見た時点でB級要素少なめだろうとは思ってたけど。)
映画というメディアで「見る」という行為そのものをテーマにする事には意味も意図もあるだろう
その辺いくらでも考察できる余白を残した作りは上手いなあ(映っていないものにこそ意味があるというか。)
最終的に本来の関係性を取り戻す展開は感動的
ただまあ、個人的には「人物の顔」→「対象物」という映画の最も基本的なカット割り
この「見る」という表現そのものにもっと踏み込んでみても面白かったんじゃねという思いはある(「あれ」の表現として見た者の反応だけ映すのは良かったけどそれ以外もね…。)
ジョン・マルコヴィッチはじめキャラクターの動かし方が好ましい
設定故に自然と「聴覚」に特化した映画にもなる
音楽が印象に残るなあと思ってたら、トレント・レズナーでした