KnightsofOdessa

私、オルガ・ヘプナロヴァーのKnightsofOdessaのレビュー・感想・評価

4.0
[チェコ、私を拒絶した世界へ] 80点

傑作。トマーシュ・ヴァインレプ&ペトル・カズダ長編一作目。1970年代初頭のプラハにて、オルガは自宅と精神病院を行き来する生活を続けている。家族、特に母親との確執は凄まじく、結局彼女は山奥にあるなんもない小屋で生活を始める。トラック運転手になったオルガは、それでも社会へと積極的に関わろうと、恋人を作ってみたり、おっさんの呑み相手になったり、病院に通ったりしてみるが、どの試みも失敗に終わり、まるで世界に拒絶されたかのように、たった一人放り出される。そして、どんどん心の中に引きこもり、自分を拒絶した世界への呪詛を垂れ流す。興味深いのは各シーンが脈絡なく紡がれていくことか。事件前の出来事は時系列順ですらないのかもしれないと錯覚するほど、停滞したまま循環しているような"退屈な"時間の流れは、そのままオルガの観た世界なのかもしれない。モノクロで撮影されているのも含めて、映画はオルガを努めて突き放して描いているのだが、まるでオルガの方から近付いてくるかのように、心を揺さぶってくるのは、その絶望した目をカメラ越しに投げかける以外にも要因があるのだろう。我々が"拒絶する世界"そのもので、オルガが必死にコチラに手を伸ばそうとしているかのようでもあり、非常に悲しくなる。
東欧映画スペース関連企画"東欧の殺人者映画"回で、済東鉄腸氏が"オルガは空の器のようだ"と表現したのが一番近い気がする。

1970年代初頭のチェコといえば、プラハの春の直後という時期なのだが、本作品にそういった政治的な文脈はあまり見えてこない。オルガが大量殺人を犯した原因をどれか一つに特定するようなことを避けるのと同じく、共産政権による弾圧も彼女に"ストレス"を与える一要素として設定されているのだろう。同じく、殺人者が殺人を犯すまでを淡々と描いたクリスティ・プイウ『Aurora』も、多くの描写を共有しつつ、"呪詛の相手"となる"社会"の捉え方が異なってくる。『Aurora』では"共産政権期のルーマニア"への憧れと"資本主義流入後のルーマニア"への憎しみを描いているのに対し、本作品では"共産政権だから~"という言及を避け、努めて一般化している。

ちなみに、本作品でミハリナ・オルシャンスカが主演を務めることになったのは、チェコとポーランドの共同制作の条件として、ポーランド人女優を主演にする必要があったからのようだ。
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