TaiRa

空の瞳とカタツムリのTaiRaのレビュー・感想・評価

空の瞳とカタツムリ(2018年製作の映画)
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荒井晴彦の娘である荒井美早が書いたオリジナル脚本を斎藤久志が監督した。今作のタイトルは、相米慎二が『風花』のタイトル案として考えていたものを持って来ているとか。

『キャロル』の作者パトリシア・ハイスミスはカタツムリの飼育を趣味としていた。雌雄同体のカタツムリは交尾の際、相手を「恋矢」と呼ばれる鋭い刃で突き刺し衰弱させるという生態がある。愛の独占を求めてセックスで相手を殺す。これがハイスミスに大きな影響を与えた。今作『空の瞳とカタツムリ』の英題は『Love Dart(恋矢)』。強迫性障害の十百子(ともこ)と希死念慮に囚われた芸術家の夢鹿(むじか)が、お互いを愛しながら傷付け合う。カタツムリの様に。二人の女の友人である貴也、十百子がバイト先で出会う鏡一を含めた四人の物語。十百子は誰に触れる事も触れられる事も出来ず、セックスも拒絶する。アセクシャルというよりトラウマによる拒絶反応に見える。夢鹿は男なら誰とでも寝る。それは自傷行為としてのセックスで恋愛とは関係ない。貴也は夢鹿を愛したが虚しく壊れる。鏡一はハッテン場となっているピンク映画館に通うゲイの青年だが、アトピー性皮膚炎の罹患者であり、自らを「汚い」と言う。四者四様に歪な人間たちを、それが何の問題も無いような視点で描く。ここではセクシャリティのカテゴライズにもそれ程意味はなく、「普通」の形も言葉でしか提示されない。十百子が踏切で鏡一に何と言ったか分からなくとも、間接キスを許し、鏡一は十百子を「きれい」と言った。あの海の彼方に見えるタンカーをフレームぎりぎりに収める趣向は何だろう。貴也が十百子をおんぶして帰るワンカットの内、何度十百子は背中からずり落ち、貴也はそれを持ち上げたか。十百子と夢鹿が別れる公園で吹く風が何故あんなにタイミングを弁えているのか。媒介となる男がいなくなると女二人は観客を媒介にして言葉を贈り合う。観客へ顔を向けた女が創作に戻るのは必然的なのかもしれない。それにしても2時間は長いが。
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