ナガエ

国家が破産する日のナガエのレビュー・感想・評価

国家が破産する日(2018年製作の映画)
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気持ちの上ではいつも、弱い立場の側に立っていたい、と思っている。
とはいえ、実際のところ、なかなかそれは難しい。
何故なら、本当に弱い立場の側に立つためには、自分は強くなければならないからだ。

強くなければ、何も守れない。
そこで僕は、いつも躓いてしまう。

こういうことを考える時、いつも「踊る大捜査線」が思い浮かぶ。全編をちゃんと見た記憶はないが、現場で頑張るものと、出世して上から変える者。その両輪が機能することを期待して、巨大組織に立ち向かっている、という話のはずだ。

僕は、出世する側にはなれないなぁ、といつも思う。そもそも、その能力がない、ということもあるのだけど、仮に自分に、出世する能力があったとしても、気分の問題としてどうしても、自分の中で、その状況を良しと出来ない。

強者の論理には、いつも歯向かいたくなってしまうから。

子供の頃からそうだった。強い立場であることを利用している者、利用しているという意識がなくても無意識の内にそういう振る舞いをしてしまう者。そういう人が、昔から大嫌いだった。だから、先生や先輩に歯向かってばかりだった。正直子供の頃は、自分より上の世代・立場の人に、気に入られた記憶がない。それは、20代になってもあまり変わらなかった。

色んな人と正面からぶつかっていくという経験を何度か繰り返すことで、さすがに僕も学習した。正面突破では、何も変わらない、と。それから、少しは頭を使うようになった。なったけど、でもやっぱり僕は、自分の両足は常に、弱い立場の者がいるところに付けていたと思う。少なくとも、僕自身は、そういう意識でいたつもりだ。

頭では理解している。なんでもいい、何らかの形で僕が力を持つことが、結果的に弱い立場の者を救うことになるのだろう、と。目の前にいる一人ひとりとの関わりの中で何かするのではなく、もっと大きなところに立って、根底から何かを変えていく方が、結果的により多くの人の助けになれるのだろう、ということは分かっているつもりだ。

でも、頭では分かっていても、自分の心が、それを良しとできない。だから結局僕は、別に誰かの助けになれたりすることもなく、時々気まぐれのように身近な人間に手を差し伸べてみたりして、なんとなく自分の存在価値を確かめたりしているだけだ。

いつでも、ババを引かされるのは弱者だ。僕も、決して強い側にいるわけではないが、僕なんかよりもさらに弱い立場に置かれている人なんか、世の中に山程いる。「自分は直接的にそういう人たちに害悪を加えていない」と、僕を含めて多くの人が、そんな風に考えて問題を直視しない。本当に時々、それこそこういう映画を見たその瞬間ぐらいには、そんな自分に嫌気が差す。でも、分かっている。そんなことは、すぐに忘れる。

だから僕には、権力の上層部にいる人間は、きっと批難出来ないんだろうと思う。スケールが違うだけで、構造は同じだ。権力の上層部にいる人間には、僕らの存在はほとんど意識されない。ごく稀に意識されることがあっても、すぐに忘れる。すぐに忘れていい存在だからこそ、無慈悲な決断が出来る。

この映画は経済の話で、正直難しい。しかし、そんな難しい全体像を、わかりやすく図式化したものが登場する場面がある。外国などからの投資が、いかにして末端の製造業まで行き渡るのかを示した図だ。シャンパンタワーのように、一番上のグラスに注ぎこまれた資金が、順に下のグラスに行き渡るようなイメージだ。

そしてきっとこの構造は、自分よりも弱い立場の人間を扱う場合も同じなのだ。この場合、流れ込んでくるものは、お金ではなく何かの害悪だ。そして大きな違いは、上にあるグラスほど、グラスの口を覆う蓋の面積が広い、ということだ。その害悪は、上から下りてくる。上にあるグラスは、蓋の面積が広く、あまりグラスの中に流れこまない。そして、自分のグラスを通過して、下に流れこんでしまえば、あとはもう関係ない。そういう連鎖が、結局、一番下のグラスまで繋がり、最下層の人がそのほとんどの害悪を受け取ることになる。

どうすべきなのかは、その時々によって違うだろうし、結局死ぬまで正解が分からないかもしれない。しかし、どうありたくないか、ということは割とはっきりすることが多いだろう。

誰かに害悪を押し付けるような存在にはなりたくない。そうならずに済むくらいの強さは、欲しいものだなと思う。

内容に入ろうと思います。
この映画は冒頭で、「この物語は史実に基づいていますが、フィクションとして再構成されています」という注意書きが出てくる。
1997年、韓国の通貨危機だ。
OECDへの加盟が正式に決定し、好景気・永続的な成長を誰もが疑わなかった1997年。韓国銀行の通貨対策チーム長であるハン・シヒョンは、上長に呼び出される。報告が遅いと叱責されたレポートについてだったが、彼女は既に10日前にそのレポートを上げていたのだ。
韓国の通貨危機を予告するものだった。
それは、韓国の外貨準備高の減少を予測するレポートだった。韓国企業の倒産が続いたことで、海外投資家が韓国の危機管理能力を不安視し、資金引き上げの動きが相次いだ。外貨準備高が減少すると、輸出入を政府が保証できなくなり、結果的に国家破綻に陥る、というのがその予測だ。ハンが宣告したリミットは、たった1週間。上長はすぐさま経済首席などに報告、対策を練ることとなったが、すぐに国民に事態を知らせるべきというハンの主張に対し、財政局次官であるパクは、国民をいたずらに混乱させるだけだと非公開を主張。結局、国家財政の危機は伏せられることとなった。
一方、高麗総合金融に勤めていた金融コンサルタントであるユン・ジョンハクは、ある日突然会社に辞表を提出する。これから韓国が破産することに賭けると上司に告げると、今までもそう言って安定した職を捨てた人間を見てきたが、いずれの時も経済は破綻しなかった。国の経済はちゃんと回るように出来ているんだよ、とユンを馬鹿にするように言った。そんな話に耳を貸さずに辞めたユンは、付き合いのあった顧客を集めて、1週間以内に韓国経済が破綻する予測を提示、この賭けに乗る人はいないかとプレゼンをする。与信取引の実態を知っていたユンは、この歪な構造が続くわけがないと直感したのだ。彼の話に乗った者たちと、大胆なマネーゲームを仕掛けていく。
一方、食器工場経営者であるガプスは、大手百貨店からの大量受注に驚いていた。勇んで契約をと思ったが、手形での決済をと言われた。それまで現金決済しかしてこなかったガプスは悩むが、それでも、5億ウォンもの取引には目がくらむ。悩んだ末にハンコをついてしまうが…。
というような話です。

この映画では、実際のニュース映像がふんだんに使われる。だからこそ、という言い方は映画に対して失礼かもしれないが、非常に強いリアリティがあった。韓国銀行の通貨対策チームの奮闘や、IMFとのやり取りなどは、恐らくきちんとした記録が存在せず、あったとしても非公開だろう。だから、この部分は、想像でしかないだろう。しかし、この映画の企画は、【当時、非公開で運営されていた対策チームがあったという短い記事から始まった】(公式HPより)ようなので、ハン・シヒョン率いるチームのような組織は、きっと存在したのだろう。あまりにも巨大すぎる事態や権力に対して、個人のあまりの無力さを感じさせる映画ではあるが、一方で、それでも諦めずに闘う姿勢や、公務員としてなすべきことをするという使命感、そしてチームの面々からの絶大な信頼などが強く印象に残る物語だ。

歴史にifはないとよく言われることで、たとえば韓国の通貨危機に対しても、IMFの介入を許さなければどうなったのか、と考えることは、無駄と言えば無駄だろう。勘違いしてはいけないが、この映画で、特に密室の場面として描かれている事柄については、事実かどうか、少なくとも映画だけを見て観客が判断する術はない。ネタバレになるから深くは触れないが、「嘘でしょ…」と言いたくなるような密約があったのかどうか、それは分からない。しかし、そういう可能性は常にあり得るし、韓国の通貨危機の際にはなかったとしても、他の場面であったかもしれない。

だから、その辺りの詳細に対してどうこうということはないのだが、韓国の上層部の面々に対する違和感を挙げるとすれば、それはハン・シヒョンのセリフに重なる。

【個人の価値観で、国の未来を決めている】

このセリフは、結局、今の日本にも突き刺さるものだろう。

ハンは、様々なデータを分析し、未来を予測し、その上でこうすべきという提案を上げる。それが、彼女なりの正義だ。もちろん、彼女の個人的な価値観も含まれる。そりゃあ含まれてしまうだろう。しかし彼女は、それをなるべく抑えようとする。彼女が、いかにそれを自制していたのかというのは、映画の最後の方のあるシーンで、驚きと共に理解できる。

しかし、権力のトップにいて、国の趨勢を決めることが出来る人物たちは、「こうあるべき」
という、個人の価値観で国の未来を決めていく。もちろん、時には、正しさや公平さではなく、政治力で無理やり解決しなければならないこともあるだろう。それが政治だと言われれば、政治のなんたるかを知らない僕は黙るしかないかもしれない。しかし、やはり、個人の価値観で決められたくはない。

確かに彼らには時間がなかった。すぐ決断をしなければ、より傷口が広がっていたかもしれない。この映画では、「IMFによる介入は悪手だった」という見せ方をしているが、別の解釈も存在するかもしれない。その辺りのことは分からない。しかしそれでも、IMFの介入を決定した者たちの決断のプロセスに対しては、「間違っている」と突きつけたい。

対岸の火事ではない。通貨危機や国家破産が起こるかどうかではなく、政治の強権が、国民に何も知らせずに何かを決断したり改変したりする、ということは、いつでもどこでも起こりうるし、起こっている、ということだ。

個人に出来ることは、限られている。しかし、「そういう世の中に生きているのだ」という自覚を持つことは、誰にでも出来る。そういう自覚を積み上げることでしか変わらないこともあるだろう。そういう意味でこの映画は、自分たちの問題だと思って見た方がいいと僕は思う。
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