こなぱんだ

ウィーアーリトルゾンビーズのこなぱんだのレビュー・感想・評価

1.0
こんなものが面白いとされるなら映画界は終わりだなという感想です。まあ、個人的な好き嫌いがあるというのを踏まえた上での感想だと思って頂ければ。もちろん、この映画がすごく好きだ!という意見は尊重します。あくまでも個人的意見なのでそれはそれとして尊重頂けると幸いです(以前変な人に絡まれたので)。



池松壮亮も監督は天才だって言ってるし。ただ、映画界という業界に身を置きながらそんなことを言っている池松壮亮は頭が湧いていると個人的には思う。

本当は0.0だけど0.0で評価できなかったので1.0になってしまいました。もう、ファーストカットで「あ、これ本当にヤバいやつだ」と思ったら本当にヤバいやつでした……なんどため息をつき、なんど劇場を出ようと思ったか……苦行以外の何物でもない……。というか、「映画」ではないです。テレ東とかの深夜ドラマでもやれば良かったんじゃない??

映画という芸術をナメているとしか思えないカットの数々……二度と映画なんて名目で映像を撮らないでほしい。元々CM出身なんだし、CMやってればいいんじゃないですか。

とまあ、本編に関係の無い話は置いておいて、そもそも「映画」って、1つのショットがあって、それをいかにして撮って、いかにして繋げることで、「映画」としての構造を作り、それが観客に享受されるという二重の構造において、「映画」と観客の間に何かが生まれる芸術だと思うのです。それゆえに、一応「映画」はスクリーンで、暗い劇場で、他の観客と一緒に見られることを想定され作られるものであると。

まずファーストカットで焼き場の煙突が映って、そこに合成でスパゲッティがはめられて、主人公はナレーションで「お母さんだった煙は粉チーズみたい」と言うのですが、ナレーションで説明しているにも関わらず映像にもわざわざ当てはめて説明するダサさ。
そして、その後も最後まで主人公たちのナレーションによる心情の吐露が続くわけですが、全て説明。「このとき僕はこう思って~~」と言われたところで観客はそれを「そうですか」と受け入れるしかなく、その時点で「そうですか」以外何も生まれないんですよね。
しかもその子供たちがまあ~~~「孤独なんだ」アピール。孤独な人って孤独なんだアピールしなくない??それがそもそも嘘くさい(よくある広告みたいな感じ)

そして、カメラの色をわざとインスタ映えみたいな色で撮ってるのですが(お葬式の花とか)、そのカットになんの意味もないし(蜷川実花が好きなのかな?みたいな感じ、決してグザヴィエドランではない)、その鮮やかさがなにか映像として効果的かと言われると、なんの意味も見いだせない。

セリフとモチーフになっているゲーム(しかも現代の話なのにあえてオシャレレトロみたいなピクトグラムのやつ!なぜ!)から察するに、いわゆる胡散臭い人達がよく言う「身体性」みたいなものの徹底的な欠如を表現したいのかな?と汲み取れはするものの、映像においてそれが徹底されてないがゆえに全くもって面白くもないし、おそらく表現として効果的ではない方法ばかりを選んでいる印象。
というか、失われた「身体性」って、そもそもめちゃくちゃテーマ古くない????1980年代くらいのテーマじゃない???とも思ったり。

途中でなぜか主人公たちの孤児たちがバンドデビューするんですが、バンドデビューのきっかけになった動画を撮る過程で、キーボードの女の子が廃材を集めて来いとかいってなかば孤児達が「DIY」的な感じで背景を作ってバンド演奏をいきなりするんだが、その際の映像が完全にサカナクションの「アルクアラウンド」とSEKAI NO OWARIのPVを掛け合わせたようなやつで、このカメラワークとか背景とか完全にプロデュースされたのね……という映像すぎてもはや笑ってしまった。

とにかくそのシーンからの孤児達がラストにいたるまでひたすらにこの映画を作った大人達に「やらされて」いるんだな……という感じがしてしまって、出資してる電通がそういう自戒も込めてこのような映画が出来上がったのなら「どうして?」という気持ちだし、マジでやってるとしたらヤバい。歌も誰かに作ってもらったのね~~という感じでヤバい。

まあ、なので、歌番組の感じとか、「やらされている」感は非常に上手いです。ひたすらに気持ち悪いけど。


まあ、途中からそういう意味でひたすらに気持ち悪いので、ラストカットで「人生は続くからこの映画は終わりじゃない」みたいなこと言ってるけど、「でもずっと操られたまんまだけどね……」と思ってしまい何もない。「虚無~」とか孤児たち言ってるけどこんな映画見せられてるこっちの方が虚無だわ!悪い意味で!と思いました。

いい大人が子供使って何やってんだ……
こなぱんだ

こなぱんだ