垂直落下式サミング

ウィーアーリトルゾンビーズの垂直落下式サミングのレビュー・感想・評価

5.0
イヤホンしてお気に入りの音楽を聴きながら夜道を歩いてるときの無敵感。それに近い。この狭くて暗い一本道だったら、ぜんぶ丸ごと自分のものにできるんじゃないかと、鼻の奥の方から謎の自信がわいてきて一駅も二駅も通り越し、肌寒さを感じる頃には家からずいぶん遠くまで来てしまったことに気付く。そのとき鼻歌でも口ずさみながらしたとりとめもない考え事のような、不思議な映画である。
レトロゲーム画面のドット絵などを随所に散りばめたアートワークや、別世界を往来するようなカット作りが美しく、絵が切り替わる度にハッとさせられる。独特なテンポを持った軽快で刺激的なリトルゾンビーズワルードの虜になってしまった。
子どもたちの無機質さはむしろ自然で、彼等彼女等がそのテンションのまま嫌に芝居がかった大人社会に交わると、物語の視野が広がったはずなのに世界は途端に窮屈なものに感じられるため、物語的にもダイナミックな対比として機能している。
特に中島セナの存在感。なんでしょう、あのお顔、あの出で立ち。隣にいたら、つい手を伸ばしてしまいそうな魔性である。無軌道で無自覚な少年たちと同じ危うさを抱えながらそれを支えるような神秘的な儚さが、画面から伝わる強烈なノスタルジーの正体なのだろうか。若干13歳。これは恋ですか、恋ですね。
これら役者たちを写す前衛アートのような抽象的で美しいシーンの数々からATGの遺伝子を感じるが、その趣向のみが先行して頭でっかちな凡作になってしまうパターンは多くある。しかし、イマドキシュルレアリズムによって伝わってくるのは、ひどく形式的な虚無でしかない。
厄介なのは、この虚無を深みだとも薄っぺらだとも言い切れないことだ。映像による視覚的な快感と、まさしく取って付けたような文芸性に殴られているうちに、この映画は現実と地続きなのか、あるいは単なる絵空事なのか、どう受けとればいいのかわからなくなってしまう。この人を食ったような態度でいたずらに茶化されたような中身のなさこそが、本作の独自性といえる。
偉そうなことを言ってそうで、特に何も言ってない。僕の好みど真ん中。大人社会の怠惰も子供社会の闇も一口に「ゾンビ」と呼び捨ててしまう安直さから、画一性に甘んじることも、それに取り込まれまいと尖っていることも両方ダサいんだと、諦めに近い空虚な感情が垂れ込めており、この映画事態のダサさを作り手自身も自覚していることがわかる。それでいて、先回り的に批判を回避する半笑いや内輪ノリに逃げの一手は打たず、むしろ映像には微塵も妥協がない。ゆえに、良くも悪くも刺激が強い映像作品に仕上がっていると思う。
我々が、信じ愛し望んでいたエモくて恥ずかしい2000年代をいまになって蒸し返してくる空気の読めなさ。同時に、こういった熱狂を草葉の陰から嘲笑し毛嫌いしていたサブカル糞野郎どもは御愁傷様、いま生きている時代を楽しめないなんてかわいそうですねwと、同じ穴の狢に唾を吐きかけていく不遜なスタイル。そんでもって、このエモについて深く考えもせず安直な判断で同調してくるやつはバカでダサくて友達になれないけど、わかったようなことを言いながらこんなもんを有り難がるような勘違い野郎も流行ってないんで僕の目の前から消えてくださいと、陽キャも陰キャもみんな平等に拒絶していく人嫌いっぷり。こんなもん惚れるしかないっしょ。
俺たちの令和には、俺たちの居場所はない。同時に、お前らの居場所もない。アートを高く見積もるな、中二病とか気取ってんな、つーか何マジになってんの?みたいな、そういうのもうやめませんか?斜に構えるとかダサいんで。うっせえな、エモだとかぬかして浸ってんじゃねえよ。は?キレそうなんだが。死ね。