レインウォッチャー

ジョジョ・ラビットのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

ジョジョ・ラビット(2019年製作の映画)
4.0
いくつか原則として観ないようにしているタイプの映画があって、そのひとつが戦争もの、特にWWIIの日本・ドイツ絡みの作品だ。ひとえに「火垂るの〜」とか「ライフイズビュ〜」のような想いをするのはもうたくさんだから、という理由による。
この作品も気になりつつ長く積んでおいたのだけれど、あのカラフルな「マイティソーRagnarok」を作ってくれたタイカ・ワイティティなら信じてもいいはず…ということで意を決してみた。
結果…天国地獄ともにあったもののギリ逃げ切り、といったところ。なので、もし題材的に同類の拒否反応がある方がいらっしゃれば試しに一度は、とおすすめできる。

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まずもっとも鮮烈な点として、この作品はいわば子供の環世界(Umwelt)を描き出している。

WWII終戦間際のドイツ、ヒトラーおじさんを父親代わりのイマジナリーフレンドとし、ユーゲントに憧れる少年…という相当にキワい設定ながら徹頭徹尾ポップな画面に仕上げているのは、あくまでも子供の視点からみえる世界を戦時中に置き換えている表現なのだと思う。
それは視覚面(低いアングル、可愛らしい配色の街並み、見たいものしか見えない)でもそうだし、時間感覚もそうなのかも。作中で何度か時間経過どうなってるんだ?と違和感を覚えるところがあるのだけれど、これは大人の感覚とは違う時間の流れ方を表しているのではないだろうか。
大人が「時計時間」で時間を枠に当てはめて・刻んで把握するのに対して、子供は「できごと時間」といわれる。自分が体験したイベントの数が、時間の判断軸になるということだ。だから実際は(この実際は、というのもあくまで大人の考えだが)1日かそこらの経過であってもその内容によって子供には永遠のように思えるだろうし、その逆も然り。わたしは、観ている感覚よりもずっと短い間の物語なのじゃないかなと考えていた。

この子供世界という描き方は、いくらでも悲劇的になりえる舞台をマイルドにし、「不謹慎感」をできるだけ回避してコメディを成り立たせているとともに、それでも直視せざるを得ない現実のゲリラ的侵入をより際立たせることにも繋がっている。わたしの経験の中ではこんな手腕は見たことがなく、すばらしく見事だと思う。

そしてこの小さな世界を見守る、大人たちの視線。
母親(スカーレット・ヨハンソン)や変わり者の教官(サム・ロックウェル)の行動は、そのまま大人たち(わたしたち)が子供たちにできることを表している。子供はもう少し拡大して「次の世代」と言い換えてもいい。

この作品のテーマとして直接的にはアンチヘイト、に見えるけれど、わたしはもう少し延長させて「いまのドイツの若者」のほうの気持ちを想像してみたりもした。
自らの責任のまったく及ばない歴史という十字架から、いまだにホロコーストの過去や敗戦・戦犯国としてのイメージで見られることもきっとあるだろう(そしてこの気持ち、日本という国の我々ほど寄り添える民もいないはず)。もちろんその歴史自体は取り消せない・忘れるべきでないことであれ、ある意味での「赦し」が必要だ。
この作品を、マオリとユダヤの血を引くタイカ・ワイティティという人が、このような仕上げで(言語も英語で)生み出したことをそのメッセージととらえるのは、いささかやりすぎだろうか…?いや、でもわたしはナチス・ボーイとユダヤ・ガールのへたくそなダンスから確かにそのバイブスを感じたし、ちょっと信じてみたっていいじゃあないか、と思っているのだ。

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まあ小難しいことを廃しても見どころだらけで、何より女性陣(スカジョ、トーマシン・マッケンジー)かわいいにしてもかわいすぎてかわいい!!問題。およびウェス・アンダーソン諸作や「グッバイ!レーニン」なんかを思い出さずにはいられない衣装や小物のポップ・アヴァンギャルドな色使い、おもちゃ感にキュン・オブザワールドである。
劇中で恋に落ちたときの気持ちを「お腹で蝶が飛び回る感じ」と語られるけれど、こっちもずっとそんな気持ちだ。英語圏で慣用句的な、既知の言い回しなのだということを後で知る。butterfly’s in one’s stomach。なんと洒落た…

ところでデヴィッドボウイの「Heroes」って、映画で使われがちポップソングランキングでかなり上位なんじゃないだろうか。ウォールフラワー、ムーラン・ルージュ、そして今作。多分他にも。それだけシネマティックな広がりを想起させる楽曲てことなのだろうな。