湯呑

ジョジョ・ラビットの湯呑のレビュー・感想・評価

ジョジョ・ラビット(2019年製作の映画)
4.6
第2次世界大戦下のドイツを舞台に、ヒトラーユーゲントに所属する少年ジョジョの日常を、ポップに、コミカルに描いた本作は、賛否の分かれそうな作風でありながら、アカデミー賞候補にノミネートされるなど概ね高い評価を受けている様である。では、その賛否が分かれそうな点がどこなのかといえば、そもそもナチス政権化のドイツをポップに、コミカルに描く事が許されるのか、という問題である。
もちろん、戦後80年が経過し、人々は先の大戦をある程度は相対化して観る事が可能になった。ナチスを題材にしたふざけた映画など、これまで大量に作られている。ナチスが殺人兵器として恐竜を蘇らせたり、あるいはモンスターや人造人間を作ったり、クエティン・タランティーノの『イングロリアス・バスターズ』という、歴史的事実を平然と引っ繰り返した怪作も記憶に新しい。しかし、そうした作品においても、基本的にヒトラーは悪い奴、ナチスは残虐な殺人集団、という設定は常に守られていた。本作はその最低ラインすら超えてしまっているのだ。
生粋のナチス信者で、ヒトラーユーゲントにも入団している主人公ジョジョにとって、アドルフ・ヒトラーは神格化された憧れの存在であると共に、日常生活の様々な局面で助言を与えてくれる、イマジナリー・フレンドとして存在する。羨望と親しみ、このふたつの感情の対象として思い浮かぶのはやはりアイドル、という事になるだろうか。それをあからさまに示しているのが、冒頭のタイトルバックである。ビートルズの曲に合わせて、ヒトラーの演説やナチスの行進に熱狂するドイツ国民の姿が映し出されるこの場面では、世界的なアイドルであるビートルズとヒトラー=ナチスを同一視し、「萌え」の対象として描く事を高らかに宣言する。確かに、良識ある方々は眉を顰めるかもしれない。
しかし、このふざけた映像はふざけたなりに、当時のドイツのある側面を正確に言い当てているのではないだろうか。どの様な独裁者であれ、国民の熱狂的な支持を得る過程で「萌え」の要素が生まれてくるのは当然だからだ。私たちは小泉政権や民主党ブームの際に同様の体験をしている筈である。
「萌え」をフェティッシュな欲望の発露と考えるなら、その対象には何らかの代替としての役割が課されている筈である。例えば、私たちがアイドルに萌えるのは、そこに(決して存在しない)理想化された異性を見出しているからだ。それは「妹」「兄」「息子」「恋人」と、個人によって様々な形態を取るだろうが、現実には存在しないものを恐れ、かつ惹かれてやまない矛盾した感情が、こうした欲望を突き動かしているのは同じである。
それでは、主人公ジョジョにとってヒトラーは何を代替しているのか。言わずもがな、それは数年前から行方知れずとなっている彼の父親である。軍人であったジョジョの父親は、突然戦地から姿を消した後、音信不通となっている。周りからは逃亡兵として臆病者扱いされ、嘲笑の対象ともなっているのだが、ジョジョは父親の逃亡、あるいは死を受け入れる事ができない。父親は必ずどこかで勇敢に戦っている筈だ、という願望と、父親の不在、という否定できない現実。この相反する感情の板挟みになったジョジョが生み出したのが、イマジナリー・フレンドとしてのヒトラーだと言えよう。ヒトラーは少年が困難に直面したり、落ち込んだりした時に必ず姿を現し、父親の様に助言を与え勇気付けてくれる。実のところ、ジョジョの実生活においてこのヒトラーはほとんど役に立っておらず、余計なアドバイスをして逆に事態を悪化させるばかりなのだが、それはヒトラーがジョジョの内面が生み出した虚構の存在に過ぎず、少年自身の能力の反映でしかない事を示しているだろう。とはいえ、この情けなくも優しい友人がそばに居てくれる限り、ジョジョは父親の不在を「暗点化」し、精神の均衡を保つ事ができる。虚構のヒトラーは、非力で気弱な少年が戦時下のドイツという過酷な環境で生き残る為の自己防衛の手段として存在するのだ。
この様に、ヒトラーやナチスを一人の少年のフィルターを通して描く事で、『ジョジョ・ラビット』は先述の倫理的な課題をクリアしている様に見える。いくら劇中でヒトラーやナチス将校をユーモラスに、好ましい人物として描こうとも、それらが少年の妄想、潜在的願望の投影であるなら、全てが現実のモラルの通用しないファンタジーなのだと言い訳する事ができる。そして、全世界から非難されるべき悪逆非道な輩でも、それを心から必要とする人々がかつて存在した事もまた、厳然たる事実なのだ。
映画の中盤、ナチスの眼を逃れてジョジョの家に隠れ潜んでいたユダヤ人の少女エルサの登場によって、ジョジョとヒトラーの関係性は揺らぎ始める。ジョジョはエルサに恋愛感情を抱き、彼女の存在を通報せよと主張するヒトラーと衝突し始めるのだ。エルサという実在する欲望の対象を発見し、己の欠落を埋める新たな術を手に入れた少年は、やがて虚構の友人に永遠の別れを告げる事になるだろう。
それを、主人公ジョジョの人間的成長と言い表す事はできるかもしれないが、だからといって、臆病だった少年が銃を持って連合国軍と戦ったり、逆にナチスに逆らって少女を救ったり、といった展開はこの映画には用意されていない。映画の終盤、連合国軍が進行する市街を彼はただ子兎の様に逃げ回るだけだ。しかし、それこそジョジョが虚構と決別し現実と対峙した何よりの証なのではないか。彼が今まで生きてきた世界は、戦時下の特殊なイデオロギーが支配する虚構に過ぎなかった。そこでは、戦争がもたらす死が、血飛沫や恐怖が隠蔽され、ただただ勇ましい美辞麗句が人々を駆り立てる。身体的リアリティを徹底的に欠いているが故に、人々は逃げる事を臆病者の卑劣な行為だと思い込む。ジョジョは死をもたらす圧倒的な現実に直面する事で、初めて逃げる、という自由を獲得し得たのである。あらゆる事が許される世界、あらゆる場所へ逃げる事ができる世界が到来する事への期待を胸に、やがて少年と少女は不器用なダンスを踊り始めるだろう。
湯呑

湯呑