Kachi

ジョジョ・ラビットのKachiのレビュー・感想・評価

ジョジョ・ラビット(2019年製作の映画)
4.3
【Laughter in the Darkを彷彿とさせるヒトラー「モノ」の作品】

絶望の反対は何か?
希望か?
否、ユーモアじゃないか?

大学院で聴講していた社会学の講義で、ある教授がそんなことを口にしていた。(学際的なオムニバス形式の授業で、その時のテーマは希望の社会学だった)

これは元ネタがあり、恐らく宇多田ヒカルがラジオで語ったものだとか。感受性が一際強そうな歌姫ならではの表現だが、真実をそこに見出せそうな洞察である。彼女が最近行ったLiveが「Laughter in the Dark」であることもあり、この発言の主はいよいよ宇多田ヒカルで間違いなさそうな気がする。

本作を鑑賞し終わり、この話が頭をよぎった。以下、ネタバレをしながら振り返りをしたい。






本作は、一見するとよくありそうなヒトラーモノの映画である。例えば「帰ってきたヒトラー」がそれに当たる。現代に蘇ったヒトラーが、徐々に人々の注目を浴び始め、ヒトラーのソックリさんとして嘲笑の対象となりつつも、現代人は彼に魅了されていく。

歴史を「知っている」私たちは、ヒトラーを笑い者にできる。しかし、第二第三のヒトラーが現れた時に、きちんと歴史に学んで時代があらぬ方向に向かわないよう自制できるか?こんな問いを立てさせられるような作品が、いわゆる「ヒトラーもの」には多い気がする。

では、本作はどうか?
たしかに、第二次世界大戦末期の凄惨な状況にコメディが織り交ぜられており、とりわけヒトラーが鑑賞者の笑いを幾度も誘う。その点では、ヒトラーものを踏襲していたと言えるだろう。

他方で、本作が私たちに投げ掛けるメッセージは何かと言えば、今回は一線を画しているように思う。なぜなら、本作はあくまでも、ヒトラーを崇拝・盲信しているウブな10歳の少年ジョジョ。彼の成長にスポットライトが当たっているからだ。

少年の置かれた状況は悲劇的である。
第二次世界大戦は末期に入り、戦況はいよいよドイツにとって過酷なものとなっている。だからこそ、10歳の少年でさえもナイフを常備し、手榴弾の扱いを知らなければならない(そして、手榴弾でジョジョは自爆して大怪我をする)

家庭環境も客観的に見れば決して良いとは言えない。たしかに母は美しく(スカーレット・ヨハンセンだから尚更)、優しいが故に反戦争派である。ナチス派であるジョジョからすれば、母は政治的には最も忌むべき存在なのだ。しかも、屋根裏でユダヤ人を匿っている。姉はすでに鬼籍に入っており、父の消息も不明だ。

物語が進むと更なる悲劇が待ち受けている。最愛の母の死だ。しかも、軍隊に入った友人から敬愛するヒトラーも自殺したことを知らされる。親愛なる母と敬愛するヒトラーの喪失。

精神的にどうにかなってしまってもおかしくないジョジョは、一方で、屋根裏のユダヤ人のお姉さんエルサを憎むべき対象から、愛すべき対象へと位置づけを変える。

本作で重要な描写は誰がなんと言おうと、ジョジョが靴紐を結ぶシーンであろう。一度目は、処刑された母の靴紐を結ぼうとするシーン。あれは、残酷な現実を受け止めて自立することを誓った行為の象徴である。

そして、二度目はユダヤ人女性エルサが、連合軍勝利に沸く外の世界へと踏み出す前のシーン。これは、人種によってアーリア人(ドイツ人)とユダヤ人を峻別していたジョジョが、自らの考えの誤りを認めて、同じ人間として共に生きていきたいという意思表示であろう。(絆を結ぶ、和解を求める行為としての靴紐結び)

どんなに悲惨な世界でも、10歳の子どもは10歳半ともなれば心身ともに成長する。悲劇の中にも、救いはあり、絶望の淵に立たされても、笑える要素はある。

「戦争が終わったらダンスを踊る」
それを果たせなかった母のかわりに、母が匿って生かしてくれたエルサと、戦争終結に際して踊ったぎこちなくも初々しいダンスは、現実がどんなに辛くても人間は強く、たくましく生きていける。

そんなヒューマンドラマとして、本作を見ることができるのが、他のヒトラーものと明確に違う点だと思った。
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