アラサーちゃん

新聞記者のアラサーちゃんのレビュー・感想・評価

新聞記者(2019年製作の映画)
3.5
作り手の熱量が伝わってくる映画というのは、大いに見応えがあるものだ。その熱が強すぎるあまり、受け手を置いてきぼりにしてしまうことも少なくないが、それに陥ることなく、観る者をぐいぐい引っ張っていく作品は、なかなかじょうずに作られているなあ、と感心する。
これもしかりだった。社会的メッセージというよりは痛烈な批判、強烈な警鐘であり、その重厚感はすさまじいが、それに堪えかねることなく最後までしっかり物語を見届けることができる。これは主人公ふたりの「完璧を追い求めるゆえの未熟さとがむしゃらさ」が観る者の共感を得るからではないだろうか。主人公ふたりは決して強くない。政府を前にすれば虫けらにもならないほどちっぽけな単なる一国民だ。それでも、目に見えない、それでいて自分たちよりも遥かに硬い、重い、大きい、強靭な壁に立ち向かおうとしている。その姿は、内容がいかに「しんどい」ものであっても、いつの時代も人の心に深く刺さる〝スポ根青春映画〟に通ずるものがあるように思う。

ただ、この映画を鑑賞したうえで、開始五分で挫折しそうになった点があった。映像だ。視覚効果をあまりにも優等生のように使い切っているような気がしたのだ。
この映画では、あえて言葉を濁すと「あちら側」と「こちら側」、対岸にいるべき人間ふたりが主人公になっている。
(ここで視覚効果と対岸というワードが出たのでおまけに言及すると、主人公ふたりは、出会うまでは背を向けるように対方向を向いている、夜中、自室のパソコンで調べ物をするエリカは右を向いているし、内調のデスクに向かう杉原は左を向いているが、二人が結託してからは杉原も右を向いてデスクにつくカットが増えてくる。これはふたりに限ったことではなく、多田や都築のオフィスルームもデスクは左向き、当初苦言を呈するエリカの上司・陣野もエリカに対して左向きの構図がとられていたが、次第に右向きのカットを取り入れ、彼女の意向に理解を示すようなニュアンスを持たせている)

さて、対岸のふたりが主人公というわけなので、「対」となる映像は多い。とくに観る者に印象的なのは「内閣府」と「新聞社」、ふたりの戦場となる職場の描かれ方の対比だ。
「内閣府」の内部は、まるで数ミリの狂いも許されないほど規則的に整列されている。オフィスにも廊下にも、植物のひとつすら置かれない。清廉であるはずの白を基調とした内装でありながら、白が持つ爽やかさは一切ない、重く、暗く、冷たい。まさに異様。主人公である杉原以外は全員ロボットなんですよ、と言われてもなんら不思議に思わないほどに機械的な異空間である。確かにイメージとしてはわからなくもないが、ここまでデフォルメするかというほど振り切った描き方をされている。
一方で、エリカが働く「新聞社」は、人も物も大いに入り交じり、電話の音や怒声、会話、テレビの音声などつねに騒がしくどこか煙たい、雑多な印象を受ける。これもまた想像に難くないというか、何も文句はない、ただ、とくにこのシーンでのカメラワークが苦手だった。整然とした「内閣府」と対比させたいのはわかるのだが、恐らく動揺と煩雑を表すための故意的な手ぶれがどうにも受け付けないのだ。そもそも私が手ぶれを好きでないだけなので、これは人によると思う。手ぶれ映像は基本的に酔ってしまう。これだけはどうにか避けていただきたい案件だった。

他にも「対」になるという意味で、登場人物が対峙するシーンはとくに計算しつくされているカットが多かったように思う。
例えば、神崎の死を知り、杉原が多田に詰め寄るシーン。圧倒的な上下関係がそこには存在しており、従来であれば多田が杉原よりも強大に映し出されなければならない。ところが座ったままの多田と、立ちはだかる杉原という対峙により、ふたりの高低差が現れるロングショットは映さず、それぞれをクローズアップで、ハイアングルから見上げる多田を、ローアングルから狼狽する杉原を撮っている。このことにより、キャンキャン吠える部下のことなど全く意に介さない多田のふてぶてしいようすが伝わると同時に、その多田に押しつぶされ丸め込まれていく杉原、という上下関係が見事に表現されている。

また、神崎の通夜の後、はじめて杉原とエリカが出会うシーンである。記者であるはずが、同業者の取材行為を妨害し取材対象をかばうという行動に出たエリカに杉原が声をかける。数メートル先で振り返るエリカ。この先の会話は、それぞれ相手の背中越しに話し手を中央に据えたカットを交互に映し出し、シーンを作っている。
これは、完全なる「対」に見えるが、恐らく位置や角度が調整されて、杉原が映し出されるカットのほうがかすかにふたりの距離が近く見えるようになっている。これは、単に神崎の娘に過去の自分を重ね、自分の信念に基づいて行動に出てしまっただけのエリカ(杉原のことなど全く眼中に入っていない)と、そんなエリカにシンパシーを感じた杉原、という心情の違いによるものである。杉原はエリカに対し、新聞記者に向ける無意識的な敵意と同時に、共通する何かを直感的に感じ取って興味を惹かれている。そのため、このシーンで描かれる微妙な距離の違いは、それぞれのお互いに対する心の距離感を表していると言っていい。

最後に、神崎の書斎で重要な資料を入手した杉原とエリカが向き合うシーンである。神崎の命を懸けた告発に正義感を刺激されたエリカは、窓から差し込む日差しに照らされ、真っすぐ穢れのない瞳で杉原を見上げ協力を求める。しかし、あらゆるものを背負ってその場に立っている杉原には、そこですぐにエリカに返事をすることができない。答えをためらい、視線を落とし、暗い影を背負っている。
このシーンもまた映画史に残るほどわかりやすくよくできたシーンなのだが、例えばいつかレビューした、アスガル・ファルハーディー監督の傑作「別離」のメインビジュアルに描かれる夫婦によく似ている。保身のため嘘をついたのではないかと疑惑がわく夫。真実を知り、娘を守りたいだけの妻。光を浴び、真正面からこちらに顔を向けている妻に対し、夫は暗い影に覆われ、俯き、顔を隠そうとしているかのようだ。しかし、実はふたりとも視線がズレている(これはイラン映画だが、中東の映画はまるで教科書に載ってもおかしくないほど清く正しく真っ当な映画のつくりをされるので、どこかそういう空気に似たものも感じた)私のなかでは、このくだりを想起させるようなシーンだった。

ところで、この映画のラストシーンについて言及したいと思う。この映画は、ラストシーンによっていったい何を伝えようとしているのだろうか。答えは観る者に委ねられている。
「   」
まさに「対岸」という言葉をそのまま映し出したかのように続く横断歩道の向こう、かすかに動いた杉原の口は、エリカに向けて確かにその三文字を呟いていた。その先に待ち受けていたのはなんだったのだろうか。実はあのあと多田のオフィスに戻り条件を受け入れていた、という結末ともとれるし、はたまた、神崎の最後と同じ目をしていた彼があのまま交差点に飛び込んでいってもおかしくない。ご丁寧に信号が変わるカットも直前に入れ込まれている。どんな筋書きも作ることができるよう、ぐうの音もでないほど用意周到なエンディングを準備してくれているのだが、私はこのラストをハッピーエンドとして捉えている。

このシーンにおける伏線は、言わずもがな神崎の自殺シーンである。そして、そのシーンにおいて杉原の役割は神崎を「唯一救えるはずの人」だった。しかし、杉原は、寸でのところで彼の自殺を察しておきながら、それを食い止めることはできなかった。
青く広い空を前にして、この灰色な世界から解放されていく神崎と、白くくすんだ曇り空が迫り、やがて灰色な世界に身体を沈めていくことになる杉原。ここでもふたりの「対」が描かれているが、映像のなかには重要なポイントとなる「黄色く色づいた銀杏の葉」が登場する。このとき、杉原の足元を敷き詰めるように銀杏は葉を落としているのだが、ラストシーン、交差点の横断歩道を隔てて対岸に立ち尽くすふたりのシーンには、「黄色く色づいた銀杏の葉」はほとんど散ることなくしっかりと木にしがみついている。

神崎を「唯一救えるはずの人」だった杉原。しかし、彼は神崎を救えなかった。
対して、杉原を「唯一救えるはずの人」であるエリカ。彼女はどうだったのだろう。

神崎の死の予感に襲われつつ、立ち尽くすことしかできなかった杉崎。まるであのときの彼の後悔を体現するかのように、死を目の前にした人を助けだそうとするように、それほどまでに強い気概を全身から発しながら、ラストシーン手前の彼女は国会議事堂に向かって走っていく。
その先の結末がハッピーエンドなのか、バッドエンドなのか。結局、それは誰にもわからない。