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天気の子のimurimuriのレビュー・感想・評価

天気の子(2019年製作の映画)
4.5
まず言いたいことは、多分みんなが思っているほど新海誠は馬鹿ではないってこと。(このレビューの後半で、この映画へのツイッターでありがちな批判をばっさり批判し返しちゃっているのでご注意を。ただそれもただの素人の一意見なのであしからず!気分害したらごめんなさい!)

さて、多分エウレカセブンもさかさまのパテマも、ひとつでも欠けたら、この映画はできなかっただろう。単に似てるということではなく。系譜ないしは文脈があるわけで、そこからは逃れられないわけだから、良くも悪くも。

で、これはエウレカセブン以来の、世の中に失望しきってしまって苦しんでいる若者やオタクたちへの応援歌のように感じた。
世界はそもそも狂っていると正しく認識することを肯定し、それでなお、そんな世界をあなたたちは主体的な選択者となって生きることができるんだという、究極の応援歌になっている。これがどれだけ人を救う偉大で優しい物語であるかは想像に難くない。ある意味では思想的自由主義の一つの極致。

以下ネタバレ

とりあえずツイッターなんかでなされてる批判として「主人公たちが罪を認識していない」「主人公が成長していない」みたいなのを見つけた。これは全くの見当違いで、新海誠はあなたが思っているほど馬鹿ではないよと言いたい。

まず、異常気象の原因が本当にヒナだとはわからないようになっているんだよこの映画。よく見ればみるほどそうで、確定的な証拠を残してないわけ(そりゃ超常現象なので証拠なんか出ないほうが普通なんだけど、逆に言えばその「にごし」はそういった性質故のことでもある)。

そのことに製作側が自覚的であることを強調するように、天気を異常だなんだと言っていること自体がそもそもナンセンスで、自然はたったここ100年のパースペクティブで考えられるものじゃない、それこそ人間のおごりであると登場人物が何度も言及してくれている。東京のここら辺は何百年前かは海だったんだよとかなんとか、エンディング近くになってもまだしつこく言ってるくらいだからね。
だから、そもそもこの(エンディング時点で)三年間続く雨がヒナのせいであるとは言えないわけです。それは映画の内世界においても同様で、自分たちの選択が異常気象の原因て思っているのは本人たちだけだからね。
だから、今の人間からしたら三年間の雨はめちゃくちゃな異常気象だけど、そもそもそれは視点を変えたら異常ですらないし、それとはまた別の話として、それが主人公たちのせいとも言えないわけですよ。

それこそ本当に主人公たちのせい=故に主人公たちに罪有り!って考える鑑賞者がいるのだとすれば、その鑑賞者こそガキってことになるわけ。たしかに、映画の外の鑑賞者はヒナによって異常気象が起きたという命題を信じる態度を許されているし、なんなら強制されてすらいるけど、そこでその外の視点を持ち込んで映画内の立場から映画内の現実の倫理によって主人公たちを糾弾するのは、はっきり言って自分を見失ってるとしか言いようがない。しっかりしろあんたは映画の中にいないんだぞ目を覚ませお前の世界はこっちだろと。

だからこそ、この映画のすごいのは、異常気象の原因が主人公たちであるとは客観的には判別できないにもかかわらず、主人公たちはそれを信じており、ヒナを殺して異常気象を終わらせるっていうオカルティーな素朴功利主義的選択を否定して、異常気象な現実を生きることを確かに自分たちの意思で選びとった(と当人たちは確かに信じている)という、主人公たちの主観的な意識は意義を持って保持されているというところなのよ。

異常気象の実際の原因はわからない。でも、好きな子を人柱にすれば晴れるなんていうおまじないの雨乞いレベルの生贄の儀式を否定して、当たり前に好きな人と一緒に異常気象な現実を生きますっていう意思表示をキャラクター達がした、そういう構図をやっちゃえたことが、今回の新海誠の神懸かった発想と構造力なのよ。なぜなら仮にヒナの祈りの力が本物じゃなかったとしても、当人たちのその意思表示(自己選択)だけは本物だから。

はい、なので改めて整理すると、今回の新海誠は3段階の論理武装を施してることがわかるわけね。

①舞台中の異常気象は、そもそも異常気象とも言えない。(これが実はかなり強い)
②異常気象ないしはその回復と、ヒナの祈りには因果関係が確認できない。
③仮に因果関係が真だとして、それは映画内の人間たち(主人公以外)からしたらオカルト話であり、理性的に信じられるような話ではない。加えて、その祈りの力が真だとして、だとしたら最終的な生き死にの判断は人柱たる当事者たちに委ねられるべきであって、舞台の日本が民主的な法治国家であるという観点からしても、ヒナを犠牲にすべきという判断が客観的に正しいということには全くもってならない。

というこの三段シールドがあるので、異常気象絡みの主人公たちの罪云々という観点からの批判は全て的外れということになるわけね(もちろん、主人公たちが犯した諸々の現実的な法的な罪はありますよ、逃げるとか銃拾って届けず持ったままだとか)。


しかも、小説版のあとがきにあるように、今回新海誠は「創作物はかくあるべし」みたいな意識は持つべきじゃないという考えのもとで作品をつくっているわけね。主人公の成長がないとか罪がどうとかってのは、べき論として言ってるんなら的外れもいいところであって、そもそも創作物の物語において主人公が成長してなきゃいけないなんて決まりないし。そりゃあんたの趣味であって、主人公の成長がない作品がクオリティとしてダメと言う(あるいはこの映画の客観的な欠点としてそれを言う)権利はあんたにはないよ、と言いたいわけです。そりゃ主人公の成長がない映画が単に嫌いだっていう個人的趣味の話なら頷けますけどね。

例えばわたしは小栗旬の声が嫌すぎて、須賀がしゃべるシーンは大抵大っ嫌いですもんほんとに。
あとあの取ってつけたようなリーゼント?あれもちょっと雰囲気壊してるよね。


まあだから、とにかく言いたいのはさ、好きな女の子を選んだ主人公の責任を作中でもっと追及しなきゃ云々て言ってる人は、もう価値観が凝り固まっちゃってるんですよ新海誠からしたら。もうそれは創作物としては「ありきたり」な展開であって、新海誠はもうその段階の先を行ったわけよ、それもおそらくかなり自覚的に。そして、その次なる結末の到達点としては、及第点を与えていいんじゃないかなと個人的には思うグッドアイデアでした。


ただ、この映画の映像面で一番良かったのは、客引きが主人公の顔ぶん殴る描写です。ここ何年かのパンチ描写で最も迫力がある差し迫った痛みを覚える秀逸な描写でした。
意外に新海誠はバイオレンス作品いけるんじゃない?と次回作を期待しちゃうくらい、あのほんの何発かの数秒のシーンはグラグラくる良質バイオレンス描写でした。

総括すると、極めてセカイ系作品ぽいんだけど、実はそうじゃない、そこを隠れ蓑にした堅実でアグレッシブな映画でした。またさらに新海文学が一歩前進した感じがします。でも雲の向こう約束の場所はまだ超えられてませんね、次に期待。