未島夏

天気の子の未島夏のレビュー・感想・評価

天気の子(2019年製作の映画)
4.6
(2019.8/21)
コメント欄にネタバレ有りの考察を追加しました。



三度の鑑賞を経た時点でようやくレビューなんてものが書けるまでに整理できた。

誰の為に生きるか。
自分か、大切な人か、社会の多数か。

本当に失いたくないものを見つけた時、自らの善意をどこまで犠牲に出来るか。

この社会で起こる様々な事や自らの罪を「大人」になったふりをして誤魔化さず、真正面から受け入れて不器用に前を向く「子供」で居る事の重要性。
それを愛の言葉に代えて叫ぶ、業の深い大傑作だ。



最初こそ主人公である帆高の「子供」らしさはネガティブに描写される。
無計画の家出。
求人を選り好みし過ぎて見つからないバイト。
分からない事はYahoo!知恵袋で聞く。
ネットカフェ生活にも関わらず顧みない金銭感覚。
他人事の様な「東京って怖ぇ〜」。
怖いのは君だ。

だがその「子供」故の鈍感さが、時に求めるものへの行動に駆り立てる原動力になる。
無知である事は恐ろしいが、何事も知ったふりをしてなし崩しにしていく「大人」には決して真似できないバイタリティが「子供」にはある。



重要なのは、今作が単に「大人」と「子供」の対立を描いているのではないという点。
「大人」は「子供」を通り過ぎただけの存在であり、根っこで求めるものに違いは一切無い。
それを象徴する人物が他でもない須賀だ。

彼は別れた妻との間に娘が居るが、なかなか会わせて貰えない。
そんな状況と帆高の陽菜を求める想いが須賀の中で交わり呼応する時、そこに「大人」や「子供」といった区別など無く、何を求めているかという純度の高い想いだけが重なって残る。
その瞬間の須賀を捉えたいくつかのシーンが素晴らしい。

そもそも編集プロダクションを営み「月刊ムー」の記事を書く彼は、超常的なネタを鼻で笑いながらもどこかでそういったものを信じられる自分で居たいと願っているのではないか…といったキャラクター形成も絶妙。

帆高と須賀の共通性のメタファーとなる猫のアメも、須賀を描写する際とても効果的に扱われている。



ここまで言葉を多用しておいて何だが、今作は「大人」も「子供」も描いていない。
本当に描いているのは、その狭間で「人間」が如何に踠いているかだ。

思い返せば主要人物は全員「大人」と「子供」の狭間で懸命に葛藤している。
その姿は皆等しく「人間」だ。



腕時計でも確認しながら観ればすぐに分かるが、今作の脚本は時間配分が完璧だ。
物語のピークがほぼ均等に、大体20分ごとに配置されている。
ピークの内容には勿論ここでは触れないので、これから二回目以降の鑑賞の機会がある方はぜひ確認してほしい。

また今作の脚本は、前作「君の名は。」で確立された構造を踏襲した進行部分が多い。
劇伴が同じくRADWIMPSである事も大きな要因だが、挿入歌に乗せて新たな生活を迎える人物を実に軽快なテンポで描くので説明に回りくどさが一切無い。

また、人物の生活にあるルーティンを1カット最低限の情報かつ同ポジションの多用で描く事で、コミカルかつ手短に収めている部分も実にアニメーションらしい。



ルーティンを描いている中で最も感動的だったのは、帆高と陽菜とその弟である凪の三人で天気を晴れにする依頼を次々とこなす場面。

三人の行動から溢れる愛嬌たっぷりのキャラクター性が堪らないのは勿論、次々と空を晴らし感謝される様子を畳み掛ける様に見せていく希望に満ちたシークエンスには、観客誰もが晴れやかな気持ちになるだろう。
天気の移り変わりに心動く事なんて、生きていれば一度くらいはあるのだから、このシークエンスの普遍性は揺るがない。



愛嬌の炸裂している今作の登場人物だが、特に主人公の描き方で目立つのは家族関係の描写を一切排している点。

通常はキャラクターの形成において家族という背景は重要な部分を担う事が多いが、今作ではそれを意図的に避けている。
その意図を恐らく象徴しているのが、帆高が初めて陽菜の自宅に招かれるシーンだ。

帆高も陽菜も相手の事情を聞きはするが、深く言及しない。
とりわけ陽菜に関しては帆高が言葉を濁す度にそれを追求せず優しく受け入れる。

「そこには二人にしか分からないシンパシーがある」という事が、決定的に描写されている。
これがとても重要で、観客の二人への理解が深まる事よりも、二人の間で理解し合う事を観客に見せる方が遥かに重要だと宣言しているのだ。



家族も、「大人」も、そして観客も、他者でしかない。
二人の間にあるものがこの映画の全てだとするこの尊き宣言は、ラストにも通じていく。
その上でこの二人がある宿命に直面した時、他者を、社会をどう見つめていくのか。

希望の光に隠れて可視化されない残酷さが徐々に増幅されていく中、観客はこの二人の決断と結末に何を見るのか。

この映画の結末をハッピーエンドやバッドエンドという言葉で括るのは、それこそ物事を分別して時には誤魔化し正当化する「大人」のする事なのだろう。



「天気の子」というタイトルは、一見陽菜の事を指したシンプルなものに見える。
だがそれだけではない様に感じる。

冒頭のシーンが誰を映し誰のモノローグで始まるか。
天気を「変えた」のは誰のどんな行動か。

つくづく業の深い、「大人」と「子供」の狭間で踠き続ける私たち「人間」にとってかけがえのない映画が、変わりゆく時代、猛暑の日射しの中で、沢山の人の目に触れている事は感動的だ。
未島夏

未島夏