shuntaroyoshino

天気の子のshuntaroyoshinoのネタバレレビュー・内容・結末

天気の子(2019年製作の映画)
3.6

このレビューはネタバレを含みます

知人内で「この映画がアリか、ナシか」という話題になったらしく、その評価方法に基づき、以下アリな点とナシな点を感想として述べる。(個人的にはアリはともかく、ナシというのはよっぽどなことでもない限り言うものではないと思っているので、総合的判断は今は保留する)

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アリな点

①ジブリ:千と千尋の神隠しsprited away のコードが頻繁に登場する。スタジオポノック《メアリと魔女の花》内でも注目されシミュレーションされていた粘着質の液体が、本作では中心モチーフとして描かれているといっても過言ではない。例えば、龍神として雨雲が白竜のように泳ぎ、神霊としての雨雫の描写として描かれる魚も、白竜を追うために銭婆が遣った形代のよう。主人公帆高が流す涙は、おまじないのかかったおむすびを頬張る千尋のそれにとてもよく似ている。(ヒロインの弟:凪が、どうにも「ハク」に見えるのは意図的なものだろうか?)
新海は《星を追う子ども》でもジブリ作品を複数シミュレーションしていたが、今回はその中でも「水」に目を向けたのが慧眼であろう。(プロメアが火ならば、)本作は水の作品。先ず風景と湿度を天気というキーワードで紐付け、また前作でも印象的な「それはまるで〜よう」と換喩される風景と主体の感情の相関関係を本作ではより高度に自覚的なかたちで取り扱い、更に主題にまで引き上げている。

②英題:Weathering with you=天候とキミ=「世界の形を変えてでもあなたといたい」というセカイ系的欲望を前提に、「世界を変えてしまったボクたち」を思い込むことで逆説的にキミを運命的に思い込む。ラノベの世界観に囚われてしまった男の話だ。(本来ならば、フィクション世界内で、世界は滅亡せず、その代償としてキミは消滅する/あるいは遠い距離の誰かへと戻る。)
現に、《君の名は。》の時は、消えてしまう世界、過去と未来、キミとボク、彗星と歴史、巫女と男の関係が随分意味的によく構築されていたが、今回は意味の構築はてんでダメ。途中に神社などの宗教的モチーフが登場し、宗教的時間的なロマンシティズムも醸そうとするのだが、無理に繋げた感が強い。まさに妄想的な構築に留まっているのがポイント。
戦争や滅亡ではなく、天気という日常性のある主題を使ったからこそ可能にした、妄想劇。この空でキミとボクが繋がれる、という童貞妄想を、天候というモチーフを使うことによって具体性のある物語に仕立てたのは興味深い。(この映画は、「天気」(=天の気、神の気分)という邦題によって巧みにファンタジックな奇跡の物語へと偽装されている。「天候」と読むと、これが途端に「狂った世界」の話であることに気が付ける)

③前作にも増しての、音楽やリズムによるセリフの区切り。日常の口語会話が、非常に自然に、且つ聞き取りやすい形でリズミカルに切り取られている。やりすぎ感も否めないが、ポピュラー映画としてはテクニックが高度。

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ナシかもな点

①資本主義的映像制作法に埋もれ過ぎている。序盤、全ての商品がこちらを向き、例えば帆高がK&Aプランニングに居候してすぐの乾杯のシーンでは手に持った酒などの缶のラベルはすべてカメラを向き、他、初めて陽菜の家に訪問する帆高のシーンで、「これ(料理に)使っていい?」と、手土産のポテトチップスとチキンラーメンを向けるところでもそう。露骨すぎる。《トゥルーマン・ショー》を観ているようだった。終盤にはそれら商品が前面化するシーンが殆ど見当たらないあたり、広告類の効果には気がついたうえで止むを得ず行なっている可能性があり、なおさらタチが悪い。

②本作も極めてミュージックビデオ的な造りになっており、音楽が所狭しと挿入される。しかし野田洋次郎と三浦透子の歌声とが性質があまりにも違いすぎる結果、複数のミュージックビデオを無闇に連結させたようなチグハグ感が感ぜられた。歌声の転調に気が向いてしまい、一本の映画としての形態感が崩れてしまっている。

③《君の名は》においてはキミとボク-3年:連続時間と超越-彗星の尾という象徴を取り纏めるアイテムとして効果的であった組紐が、本作では帆高のプレゼントする指輪に変わっている。が、その指輪の重要度が比較して低い。3年の月日を乗り越えさせる形見として考えればたしかにモノであることは大切だが、指輪である必然性はあったのだろうか?

④15歳の中学生女子をラブホに連れて行き、ピンク色のモヤモヤとした風呂シーンをわざわざ描写、その上バスローブ姿にして、それを自ら脱がせたり、消える時にはまるで身体だけが転送されてしまったかのようにバスローブだけをベッドに寝かせておく様が大変キモい