いけ

天気の子のいけのレビュー・感想・評価

天気の子(2019年製作の映画)
2.5
あの代々木の廃ビルの一階は黄色の看板が特徴的な「きぬちゃん食堂」で、今は神保町に移転したらしい。あの店の男子トイレは何故かミラーボールが回っていた。超激安を謳う割にはそこまで安かったイメージもない。

自転車に乗って久々にTOHOシネマズへ行きようやく『天気の子』
前作『君の名は』に抱いた不快感を引きずりつつ行くも、前作よりはまだ見れた。しかし不満な点は多い。

毎度お馴染みの記号化された街のショット(特に歌舞伎町を正面から描いたショット)が見るに堪えないところはいつも通りで最早安心。

説明過多なナレーションとエモーショナルな場面で必ず流れるバカみたいな音量のRADWIMPSは相変わらずで、本当に新海は映像を信じていないのだなと実感。特に物語上極めて重要な2発目の銃声の後、間髪入れず曲を流した部分は噴飯もの。それは後半部のカーチェイスのシーンがまるで面白くないことでも明らか。『天空の城ラピュタ』や『崖の上のポニョ』のオマージュがありながら、宮崎作品の運動の活劇性をまるで継承できていない点は、端的に実力不足。

『天気の子』では晴れと雨の2分法への批判が主題になる。「晴れ」の選択は天野陽菜が人柱になり、天候が回復する功利的社会。「雨」の選択は東京が沈み、平等に衰退する社会。どちらがいいかの葛藤で全編を支える。ここで、帆高は「雨」の選択をする。この世界が崩壊するとしても、陽菜と共にいる。するとその選択の結果、その世界は「案外」悪くなかった。故にそもそも2分法が間違っていたという論法である。ここに2つの問題がある。

1つ目は、2分法を持ち込んだのは新海自身であるという点。『天気の子』では晴れか雨の2択の世界観が導入され、言うなれば「曇り」の可能性がまるっきり失われている。すなわち、本来なら曇りであるはずの世界を2分法に単純化し物語上の選択を強いるためだけに世界を存在させる愚かしさ。ネオリベ的世界に大きな社会の構築が不可能であったという前提が果たして本当かどうかは個人の意見だが、私個人は社会変革は未だ可能であると考えるので、世界を2分法に押し込める乱暴さは誠実さに欠けると考える。これはセカイ系全てに対する批判になりうるかもしれない。(現にセカイ系はやや苦手)

2つ目は、一方の選択をした後、つまり遡及的にしか2分法を批判できていない点である。2つの可能性の内ひとつを選択した。その世界は「案外」悪くなかった。故に2分法が間違っていたという論理からすれば、それは2分法を一旦受け入れたが大丈夫だったということである。帆高を支える論理が、選択の結果が悪くなかったことと自分で選択したという自負、この2点に集約されている。これでは陽菜を人柱にした世界線を否定することはできない。帆高の態度は「晴れ」の選択をしたとしても、自分の選択だと居直ることで安易な自己肯定を可能にする。帆高は世界の構造を変えることなく、甘受したに過ぎない。選択したという欺瞞によって、選択させられたという次元が包み隠されている。

長々とレビューしたが、映画館から出ると雨が降っていてブチ切れそうになったから新海誠を信じる必要がないとの思いを再確認。
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