ヤマダタケシ

2分の1の魔法のヤマダタケシのネタバレレビュー・内容・結末

2分の1の魔法(2020年製作の映画)
3.6

このレビューはネタバレを含みます

2020年8月26日 TOHOシネマズ日比谷で

【魔法=可能性】
 〝かつて魔法があったが便利さによってそれが失われた世界〟を舞台にした話。ここで言う魔法は使用するのに努力が必要な力で、そのめんどうくささゆえに魔法はあらゆる機械に変わられてしまっている。機械が機械なのは、それが努力を必要とせず誰にでも使用できるものだからであり、その意味で今作は便利さによってそれぞれの能力、可能性が見えなくなってしまっている世界の話でもある。
【世界の見方が変わる話】
 今作の主人公が暮らす世界はスマホを含めたあらゆる電化製品がある世界で、かなり今わたしたちが暮らしている現実の世界に近い。ひとつ違うのはそこにかつて魔法が存在したとされている事。
 今作は、半分だけの身体で蘇った父親を完全に蘇生させるための冒険を通して、主人公の世界の見方を大きく変える。
 大きくはふたつの点で世界の見方は変わっていて、一つ目は〝自分の魔法を信じられない主人公がその魔法を信じる事によって、この世界に本来隠されていた魔法に気づいていく〟という事。ここで言う魔法は可能性に言い換えることができ、便利さ(=機械がそのひとに出来得る事の機械を奪ってしまっている)ゆえに見えなくなっている、この世界本来の可能性が冒険を通して溢れてくる。それは主人公だけでは無く、作中で登場するあらゆる生き物たち、街全体が、この冒険を通してその魔法=可能性に目覚めて行く。
 つまり、魔法が無くつまらなく見える世界、またそれを見る何も出来ないと思っている主人公自体が大きく変わる。

※何となく、この冒険のはじまりにスマホが壊れるというのも、すぐに親や友達に連絡ができないという状況を作り出している。

 二つ目は、主人公がまだ可能性に開かれる前の世界の見え方である。今の、これからの世界に可能性が開かれていく中で、主人公はそれまで自分が育ってきた世界、つまりまだ自分に自信が無く可能性が見えなかった世界=過去を振り返る。その時そこに父親代わりに自分を励まし支えてくれた兄の存在を思い出す。そしてその優しさ大切さに気づく。主人公がそれに気づく、「父親とやりたかった事リスト」にチェックを入れて行くシーンはハッとするとともに物凄い感動的だった。
 映画全体を通して世界全体にただよう狭い視野からのあきらめが開かれていくようなそんな感じがあった。

【生まれつき持った可能性に見えなくもない】
 ただひとつ苦言を呈すとするなら、この映画の世界に生きる人々をファンタジー上の生物にし、彼らが可能性に目覚めて行くかたちで描いた事によって、それが生まれながらに彼らに備わった能力に見えてしまうからである。つまり、普通の世界の中で埋もれてしまった、本来授けられた能力、使命に目覚めて行くようにも見え、それによって何となくこの世界ではその人がするべきことが生まれつき決まっているようにも見えるし、それは少し優生学的にも見えたりする。
 つまり、この映画の中には〝生来の才能に逆らってそれをする人が出てこない〟ケンタウロスは走るし、ピクシーは飛び、エルフの主人公は魔法を使う。
 なんとなく冒頭で一つ目のキャラクターが魔法を使うので、エルフ=魔法ということでも無いのかもしれないが、メインで描かれる部分では生まれとすることが一致してしまっている。それはある意味で『ズートピア』でウサギである主人公がより強い動物が働いてる警察署で働いている姿と真逆である。
 となると重要なのは〝エルフだけど魔法が使えない兄〟の役割だった気がするのだが、彼には〝主人公にとっての父親だった〟という物語が付与されてなんとなく彼に出来ることはなんなのか?という所に対する回答はあやふやになってしまう。これだと何となく、才能がある人を支えるだけの人に見えなくもない。
 明るいニートでありながら、失敗と思われている彼なりのミラクルをもう少し見たかった気がする。