ニューランド

非情の男のニューランドのレビュー・感想・評価

非情の男(1961年製作の映画)
3.6
☑️『非情の男』及び『俺たちの交響楽』▶️▶️
 高橋治も朝間も、松竹の歴史に於いて、大島や篠田の後塵or山田の脚本共作者·として表には立たなくも、しっかりとある部分を支えていた人たちである。
 高橋治は映画に限ると、松竹ヌーヴェルヴァーグの一翼を担い、小山明子を主演とした二本(特に短尺の方)は名作ともされている、映画界を去ってよりは小津の研究本が話題になったりもした。どちらにせよ、他のNVメンバーに比べると、タイトで映画を大きくははみ出さない律儀さ、下に付いた事がある以上に自然に小津に近しさを抱くよう資質がある。本作も、描写·スタイルは無駄がなく、かつ厳しいどこか無心の求道的な所がある。『青春残酷~』の兄姉世代の知的位置から『~墓場』の下層の人達の動物的軋轢を描いてる『非情~』だが、スッキリ·しっかりとブニュエル古典的残酷収束の美学·哲学に落ち着いてく、その辺りの落ち着いて力ある制御と徹底が見事だ。見事という言葉がNVに反する気もするが、明暗度·乾湿度は対称的も、主要3人のなかでは篠田に類するものがある気する。画面の左右から奥からも鏡も使っての知的詰め込み方、普通の行動前シーンでも何気に鋭い仰角が多用され、ごく速い流れる手前のパン·サイズや確度取りの敢えての段差断絶力も知らない内にある。一般の角度変えや(フォロー)移動も正確以上に厳しい。目覚めるべきを自覚·利用できない不自由なキャラたちの捌き·組合せが見事。
 他のこの派の作家の様に思想やビジョンに膨れ流れてゆく事はない。すべては予め末路まで、細かくも正確に線が引かれている。「貧しくも僕たちは未来を見据えている。君は今の虫けらだけという場から抜け出し、上の立場に這い出る為に、親子の絆も切り、理想とも無縁に、目先だけ。近く必ず破滅する。」「私も目先の金や安泰の為にあんたを離れた。あんたは今や、孤立、寂しがってる。これからは離れない、男と女として惚れたから。」日雇掻集めピンハネ、競馬ノミ屋、弱みもつ金持恐喝、を続け底辺抜出しのし上がり、ヤクザ下から組織刷新似非理想化へ向う男が全てに報復されて足場から壊れてゆく。
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 朝間作品は、シナリオを映像化する時の、肉付けや拘りがなく、素直に平均的に、カメラ位置を決め·動かし、人を配置しパターンのキャラと仕草を与えてゆく。朝間監督作品というのは観たことがなかったので、ちと興味は合ったのだが。当時、まだあんな善意と脳天気な人達のグループが存在したか不明だが、時代錯誤的な印象は拭えない、古めかしくてももっと作家的執着を持たないと作品足り得ない。『ここに泉あり』とか『同胞』を思い起こさせるが、随分スッキリしてるが、それが思わぬ新鮮さをもたらす所も、またある。
 川崎の労働者等から2百人を募り、第九合唱団の編成·練習·発表の啓蒙的発想と実践。各職場の勤務時間を遣り繰りしてまでの、大変さ。当初の合唱指導や、恋愛の御法度ムードのストイック強制感。その後者に反撥·脱退者を、勧誘時の彼女が目的で入って来た失恋者が、病床の先輩から報われずもその人の為に愛し続ける事が恋愛の本質と云われ、説得に向かう。果たしてそれらに価値あるのかわからないも、発表会の充実度·密度は直に力として伝わってくる、なかなかのもの。その後の「やり遂げた後の虚しさ」「今夜は夜を徹して飲もう」がストレートに伝わり来る。
 創った事に意味はあるのかよく分からないが、創り方の素直さが手応えらしきに結び付くは、考えさせもさせる作品。
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