shinya

宮本から君へのshinyaのレビュー・感想・評価

宮本から君へ(2019年製作の映画)
5.0
「宮本から君へ」は幻想だ。
宮本浩は人間賛歌を手荷物に、この混沌とした時代を殴り飛ばしにきた偶像だ。

そう思うたび、宮本に「逃げるな」と引き摺られ現実に引き戻された。
いや、正確に言うと虚構の世界が、血と言葉により、現実に染められていったという感じだろうか。
鏡に写った宮本は自身を殴り続けていた。次は君たちの番だと言わんばかり。
そして、宮本はスクリーンから僕たちに殴りかかってきたのだ。

映画版は宮本と靖子の恋愛編。
2人の怒号飛び交う絡み(あれは言葉のセックス)を観ていると、暴力的で、自己中心的で、超現実的な宮本を、靖子の女性としての強さと弱さ、優しさが幻想から現実に変換していく。
いつ壊れてもおかしくない危うい関係。何というバランスなのだろう。
打てば響き過ぎる位に共鳴し合う2人が生み出すエネルギーは映画のスクリーンをはみ出していた。
2人の言葉に僕は精神的に殴られ続けた。

凡人であれば、何か壁が立ちはだかるとき、二の足を踏んでしまう。
しかし、宮本は目の前の壁を乗り越える為だったら、自身の自我と共に壁を破壊していく。それは自我を超えた本能だろう。
それを僕は恐ろしくもありながら、羨望の眼差しで捉えてしまうのだ。

宮本は既存の価値観や固定観念を破壊し、どこか超越した人間として存在している。
その存在は僕の無意識の超自我を目覚めさせるように刺激し、気付けば殴られたかのように顔を歪ませ、涙腺が崩壊していた。

宮本は愛する女性をスーパーヒーローのように自己犠牲で守るわけでない。
超越した自己愛により、相手を飲み込み、包み込んでしまう。
俺が幸せなら、お前も幸せ、バラ色の人生が待ってるじゃねーか、と。
善意から来る、なんて身勝手で無茶な自己肯定力。悪意的な思考ならジャイアンだ。

そんな自己中心的で、己の信念を貫き、既成概念、固定観念を破壊していくのが宮本だ。奴はパンクなのだ。
それを全て受け止め包み、時にはやり返す靖子には感服するしかない。靖子は強い人だ。

靖子との未来は決して希望に溢れるものだけでは無く、前途多難だろう。
しかし、宮本となら共に生きていけるし、生きていきたい。不思議とそう思うのである。宮本は表層的な部分ではなく、深層的な部分に訴えかけてくるのだ。
宮本は暑苦しくて、恥も外聞も無く、鼻水、唾、米粒を撒き散らす男だが、魂を震わせる力を持っている。

裸一貫、剥き出しの魂で殴りかかってきた宮本に、僕は殴り返すことが出来るだろうか?
僕は僕から宮本へ何か伝えられるような男になれるのだろうか?

「宮本から君へ」は現実だ。
宮本浩は偶像ではなく、ただの男だ。
こんな僕すら抱きしめようとしてくるむさ苦しい男だ。
宮本から贈られた言葉の拳を受け止めなければ、次は俺がキンタマを潰されてしまう番だ。
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