確かにこの作品は『平成仮面ライダーシリーズ最終回』といってなんら問題はない。
それだけの熱量と問題と爽快感をこの作品は含んでいる。
「仮面ライダージオウ」は二つ最終回がある。一つはTV版最終話であり、二つ目は今作だ。
今作はテレビシリーズと繋がらないような構成となっていながら、テレビシリーズの伏線を回収しながら、ジオウ真の最終回とも言える大団円を迎える。
その様は見事と言えるし、次作「仮面ライダーゼロワン」へとバトンを繋ぐ構成も完璧と言える。
しかし、今作はそんなことを吹き飛ばすほどに濃い"平成"を含んでいる。
世界観を無視したメタ発言、仮面ノリダーの登場、「平成」という概念を物質化、ギャグのようなラスボスへのとどめ
真面目に見ていたら気がおかしくなるほどの奇行(?)の数々。
しかし、平成仮面ライダーシリーズを観てきた"よく鍛えられた"オタク、視聴者はむしろ安心感を覚えてしまう。
なぜなら平成仮面ライダーシリーズが始まって20年余り、
仮面ライダー作品たちが
所謂「その瞬間瞬間を必死に生きてきた」様子を時に喜びながら、時に怒りながら、時に呆れながら、見守ってきた過去があるからだ。
なにより仮面ノリダー/木梨憲武が公式仮面ライダーに客演することは、本来の視聴者層である子どもたちを置き去りにしていることは間違いない。大人の自己満足と言っても過言ではない。
しかし、東映、仮面ライダーは平成の始めに仮面ノリダーというパロディによって実質潰されたという過去がある。
その過去がありながら仮面ノリダーを客演させることは、東映がその過去を許したと言っても妄言ではない。
仮面ノリダーというパーツは最早「平成の仮面ライダー」という概念全てを包括するためには不可欠といえる客演だったのだ。
ノリと勢いの中脈絡なく飛び出てくる平成ライダーたちも、最早これは""概念が「仮面ライダージオウ Over Quartzer」に客演しているという状況""に他ならない。
ギャグにしか見えないラストの全平成主役ライダーキックも、
『概念が自タイトルを背負って平成という時代に蹴りをつける』
という表現だと思うと自然に涙が頬を伝った。
そして締めにDA PUMPの歌う『P.A.R.T.Y』。
もう逆に文句なしである。
この4.8というスコアに誰も共感してくれなくてもいい、ただ平成仮面ライダーを追ってきた自分にとっては最高の最終回だったのだ。