ナガエ

つつんで、ひらいてのナガエのレビュー・感想・評価

つつんで、ひらいて(2019年製作の映画)
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【『デザイン』っていうのは『拵える』なんですよ】

非常に印象に残った言葉だ。

通常「デザイン」というのは、「設計」などと訳される。要するに「作る」ということだが、「作る」というのは、基本的には、自分の動機から始まる。しかし「拵える」というのは、「他者のために」というのが入ってくる。誰かのために作るのが「デザイン」だ、と彼は言う。

装幀家・菊地信義。
挑戦者だと思った。

菊地信義の弟子である水戸部功は、既に齢70歳を超えている師匠の仕事に対して、「全部やられちゃってますよね」と呟いていた。この映画の中でもいくつか、菊地信義が手掛けた装幀が登場するが、確かに、斬新さという意味で驚かされた。よくもまあ、「本の表紙」という、相当に制約の限られた世界の中で、これほどまでの独創性を生み出し続けられるものだな、と。

菊地信義自身は、こんな風に語っている。

【(ISBNやバーコードなどをカバーに印刷しなければならなくなったことは)悪いことじゃないんですよ。悪くないっていうか、色んな条件をクリアする中で作り上げていくのがデザインだから】

この発言は、ISBNやバーコードなどに関する言及だが、「本」というフィールドについても同じことが言えると感じた。デザインというのは、もちろんそれぞれに専門分野があるだろうけど、世の中に存在するありとあらゆるものに関わってくる。手がけようと思えば、いくらでも方向性はある。その中で「本」という、何千年も形態が変化せず、流通や販売上の制約もある世界を選び、その中で誰もやったことのないことを次々とやり続けるというのは、やはり凄いことだと思う。

しかも菊地信義は、基本的に装幀に絵やデザインを使用しない。シンプルに文字、つまりタイポグラフィのみで勝負している。ここでも「絵やデザインを使う」という自由度を、自ら手放しているのだ。

色についても、こんな風に語っていた。

【僕は基本的にタイポグラフィのみでやってるから、白と黒で成立しないデザインは弱いんですよ】

つまり、文字の配置さえ決めれば、あとは墨一色の印刷でも成り立つ、そういう強さを出さなければ、タイポグラフィのみのデザインというのは成立しにくい、ということだ。

しかし、彼も色を使わないわけではない。先程のセリフに続けて、こんなことを言っていた。

【ただ、テキストがそれ(=白黒のみのデザインで行くこと)を拒絶するんですよ。その格闘をどこまでやるか、という勝負ですね】

「テキストが拒絶する」というのは、なかなか一般的には理解しにくいだろう。ただ、菊地信義の発言の節々に、やはりテキスト(=本文)をいかに重視するか、という信念が伺える。一番そのことが如実に現れていた場面が、弟子である水戸部功が手掛けたある装幀へのコメントだ。ここでは具体的にどう発言したのかは書かないが、「確かにな」と言わざるを得ないものだったし、逆に言えば、そう指摘できるということは、自身は常にそのことと向き合って、その状態に陥らないようにしている、ということだ。しかしそれは、相当にハードルの高いことだと言わざるを得ない。

だから、と繋げるのは、映画の展開にそぐわないかもしれないが、彼はある場面で「空っぽになった」という表現をしていた。

【文芸書の装幀を色々と手掛けてきたけども、自分自身はどんどん空っぽになってきている。1万点を超える文芸書を手掛けてきたから、だんだんイメージを結べなくなってきた。それはその通りで、小説を読むというのは、たくさんの人間の心の有り様とか動きを知ることで、それらを知れば知るほど分からなくなっていっちゃうんだよ】

なるほどな、とも思うが、そもそも文芸書だけで1万点もデザインをしてきたら、そりゃあ空っぽにもなるでしょう、と思った。むしろ、1万点以上もデザインしながら、まだなお新たな挑戦をしようとしている(しかしそれが出来そうにないことを嘆いている)という点に凄まじさを感じる。

水戸部功が、面白い発言をしていた。菊地信義が彼の装幀を、「上の世代のデザインに対する死装束だ」と言ったという。つまり、自分たちの世代が作ってきたデザインを、自分の弟子に殺される(これは悪い意味ではなく、乗り越えていく、というようなニュアンスだ)。そのすべてをひっくるめて「菊地信義の物語だった、ということになるんだろう」というようなことを言っていて、菊地信義の真意はともかく、弟子にそう思わせてしまう偉大さみたいなものは強く感じた。

菊地信義が装幀家を意識したのは、モーリス・ブランショの「文学空間」という本に出会ったことがきっかけだった。高校生の頃だったはずだ。そのデザインに惹かれ、代理店や制作会社などで12年間サラリーマンを続けながら、31歳の時に、装幀だけで食べていくと決め独立した。

このモーリス・ブランショ、映画の中で再び登場する。菊地信義は自身の人生を振り返って「運がいい」と言っていたが、なんというのか本当に、お膳立てをしたかのような展開になる。ラストの方で、印刷所にまで密着しながらその仕事ぶりを追いかけるシーンになるが、「言葉は、人間のことなんか相手にしてくれないんですよ」などと言う菊地信義だが、なんというのか、それでも、言葉に振り向いてもらおうと思って全力でもがいているような姿に圧倒された。

最後に、弟子の水戸部功のこんな嘆きで終わりにしよう。

【シンプルなデザインが一番良いって思ってても、それを推せないのが僕らの世代なんですよ。「もっと何かやってよ」って言われてしまうから。何か施したものがデザインだって思っている人もいるし、だから、一番良いって思ってるものを提案しにくいこともある。その闘いをどこまで出来るかでしょうね】

菊地信義のデザインは、独創的で奇抜でありながら、基本的にはシンプルなのだ。そのシンプルさは、装幀家への「信頼」みたいなものが生み出させていたのかもしれない。「デザイン=拵える」という意識を、依頼側も依頼される側もきちんと共有出来ていれば、シンプルなデザインは通る。しかし、「他者のためにデザインは存在する」ということが、お互いに共有出来ていなければ、シンプルさは「何もしていない」という意味を帯びてしまう。

そういう意味で、ちゃんとした意味での「デザイン」が、もう成り立たない時代になりつつあるのかなぁ、なんていうことも感じた。
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