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ペトルーニャに祝福をのarchのレビュー・感想・評価

ペトルーニャに祝福を(2019年製作の映画)
3.6
北マケドニアの作品。
女性禁制のキリスト正教の十字架争奪戦の儀式(日本の福男選びみたい)で女性のぺトルーニャが十字架を取って優勝してしまうという実際に起きた出来事を題材に選んでいる。

宗教や習慣、規則といった政治未満のものに固執することが如何に男性優位の社会を補強してきたのかが窺える。
この映画において十字架は単なるマクガフィンであり、本質はやはり男性優位の社会における男性のテリトリー意識であろう。ここまでは男性のものだというその意識は、前提に先程も述べた習慣といった政治未満の共通認識があって、この共通認識が厄介なのだ。こういった問題を生み出す一方で、社会は共通認識によってコミュニティを作り出している。だからこそ固執してしまうのはある種社会に生きるものとして正しい反射である。
だが、固執することで差別されて虐げられるもの達がいると、知ってしまったなら、無視することは出来ないのだ。


一夜の出来事としてこの物語は描かれ、多くの男性が"群れ"となり、ぺトルーニャを責め立てる。しかし必ずしも女性が味方という訳では無く、リポーターが社会批判の材料にしようと画策する様はまるで彼女を"ジャンヌ・ダルク"として矢面に立たせようとしているようで、また母親は彼女を愛しているが、世代の違いが産んだ価値観の違いからぺトルーニャを苦しめてしまう。ここでの違いを認めながらも抱擁する姿に少しうるっと来てしまった。
女性だからといって必ずしも女性の権利のために闘わなければならないわけじゃない。この視点は『最後の決闘裁判』にもあった視点で、最も評価しているポイント。

ぺトルーニャはそもそも、女性の権利の為に十字架を取った訳じゃない。幸せになりたいと、小さな願がけとして行ったに過ぎないのだ。彼女は最後に十字架を返す。群がる男性や宗教を信じるもの達にとって、その十字架は聖なる物であり、男性優位の社会を支える何かに成り果てていたかもしれない。だが、彼女にとっては結局、小さな瑣末事でしかなかったのだ。


余談だが、この十字架争奪戦を日本で例えるなら多分福男レースが近いじゃないかなと思った。もし、福男に女性が選ばれたなら、日本はどう報道するのだろう。レース参加者は何を思うのか。そもそもレースという体力勝負にしているところが実は、十字架争奪戦よりタチが悪いのではないかと考えてしまう。

伝統や習慣は時として安心を与えてくれるが、誰かを首を真綿で絞めているかもしれないことを忘れてはならない。