幽斎

ナイル殺人事件の幽斎のレビュー・感想・評価

ナイル殺人事件(2022年製作の映画)
3.6
【幽斎の2022年ベスト・ムービー圏外作品】
恒例のシリーズ時系列
1937年 5.0 Death on the Nile「ナイルに死す」原作、早川書房の翻訳権独占作品
1978年 4.0 Death on the Nile「ナイル殺人事件」John Guillermin監督
2004年 4.2 Death on the Nile「ナイル殺人事件」名探偵ポワロ・シリーズ
2022年 3.8 Death on the Nile「ナイル殺人事件」本作

原作「ナイルに死す」Agatha Christieの中近東シリーズ第2作、他に「メソポタミヤの殺人」「死との約束」。3作品の中でも圧倒的に秀作で、私のクリスティ・ベスト「そして誰もいなくなった」有名な「オリエント急行の殺人」と並ぶクローズド・サークルの傑作。絶海の孤島「そして」と較べると、本作は船上、オリエントは列車で密室の定義は弱いが、イギリスのファン・ミーティングではベスト10に入る。MOVIX京都で鑑賞。

なぜクリスティが世界中の人に愛されるか?、それは原作に象徴されるストーリーテリングの巧さ、読者にページを閉じる事を忘れさせる物語の吸引力に尽きる。それにイギリス文学の格調高い文法と、気高さに溢れた様式美が加味され、機械的なトリックに翻弄される現代の作家でも埋める事は出来ない。彼女の最後の1ページまで飽きさせないセンテンスは、これからも読者を魅了して止まないだろう。

圧倒的な人気を誇る原作ミステリーと成れば世界中に愛好家が居る中、映像作品を作るのは相当な緊張感に苛まれる。1978年版がイギリス人監督を起用した様に、クリスティの作品はアメリカやフランス、日本も公式に映像化してるが、ハッキリと面白くない。ポワロ・シリーズを演じたDavid Suchetも「ナイル殺人事件」は過大なプレッシャーで撮影中は眠れなかったと告白。それだけクリスティはイギリス人に敬われてる。だが、その難題に挑戦するバカが現れる(笑)。

Sir Kenneth Branagh、61歳。アカデミー賞で8部門ノミネート、個人の最多記録。先月行われた94回で遂に!「ベルファスト」脚本賞ゲット。彼が賞を獲れなかった理由は「ローレンス・オリヴィエの再来」と言われる通り、生粋のアイルランド人だから。イギリス人女優がハリウッドで持て囃されるのとは対照的に、多分に彼の才能に対する嫉妬だろう。俳優としても監督としても当代一流の才人に何の異論もない。主宰する劇団のスポンサーがPrince of Wales、チャールズ皇太子と言う人脈でも明白。そんな彼にクリスティの曾孫から電話が鳴る。

フォックスは、クリスティの曾孫James Prichardが有する著作権で、シリーズ化を念頭に映画化を持ち掛ける。来日した彼のインタビューを見た事有るが、超有名人の末裔と言うイメージに程遠く、とても気さくで穏やかな人。彼ならクリスティを金儲けの為に安易に安売りしない事は、佇まいからも感じた。Peter Ustinovシリーズも有名だが、舞台裏で権利関係が錯綜、3作目で質は下落した。今回はシリーズの統一感を第一に「オリエント急行殺人事件」が第1作目に決まる。次はポワロ選び、イギリス人俳優のみが候補に上る中、曾孫のPrichardはフォックスにBranaghを推薦する。

彼が監督するのはフォックスも同意したが、主演も兼ねると彼の独善的なカラーが作品を打ち壊す懸念が有る為、大作の主演をオーディションで選ぶと決めた。まさかプライドの高い彼が、オーディションなど受ける訳が無いと高を括る。しかし、颯爽と現れた彼はオリエント急行の汽笛のモノマネまで披露して作品への意気込みを熱く語る。もう、走り出した列車を止める事は誰にも出来なかった。

レビュー済「オリエント急行殺人事件」彼の人脈をフル活用して、1974年版に劣らない豪華スターが集結。興行成績も文句なく、追加で撮影されたエンディングで本作の告知まで行う厚かましさ「ナイルは呼ばれて行くモノじゃ無いだろう」原作ファンの総ツッコミを物ともせず、本作の製作開始が決まる。だが、興行成績とは裏腹に前作のクオリティは芳しくない。宜しければ私のレビューもご覧頂きたい。

理由は1974年版と較べて、何の時代の変化も感じられない。イギリスの批評家も「豪華スターのお陰で脱線せずに済んだ」皮肉タップリ。Branaghはミステリーの一丁目一番地を知らない。それは「探偵は主役であっても主人公では無い」。探偵は一歩下がって物語を俯瞰する役割を担うべき。前作で「俺が!オレが!」前に出しゃばり、犯人より目立つ悪循環。名探偵ポワロ・シリーズのクオリティの訳を、もっと勉強するべき。

製作がフォックスを買収したディズニーに変わった事も大きい。ディズニーは「夢」を売る事が商売で、物語は必ずハッピーエンドで終わる。つまりお子様向けの上辺が綺麗な作品しか作れない。ミステリーは99%殺人事件、綺麗事で結末は終わらない。夢を売るディズニーと人殺しが、どう噛み合うのか?。前作に続いて、私の生涯2位作品「悪の法則」Ridley Scott監督のスタジオが製作。クリスティの母国イギリス映画でも有る。彼はプロデューサーとしてBranaghのお目付け役も兼ねる。

公開は度重なる遅延に見舞われた。撮影が遅れて2019年が2020年に。COVIDで2021年秋に。問題はその後。レビュー済「クライシス」でも触れたが、Armie Hammerお前の事だ。複数の女性に「僕は人肉を食べる人種」「俺の奴隷として生きろ。俺の所有物だ」DMを送る。更に別の女性から「暴力的にレイプされた」不倫関係をバラされ製作過程の作品は全てボツに。パンフレットをご覧頂ければ分るが彼の扱いだけ異常に小さい。イギリス映画を盾に難を逃れたが、騒動が収束するまで年明けを待つ羽目に。今はケイマン諸島に身を潜めてる。

大変長らくお待たせしました。原作小説を何十回と読み込んだ私の考察に移ります。トリックは回避するので未見の方も乗船可能。それでは皆さま、ナイルへの旅の準備は宜しいでしょうか?。

原作「ナイルに死す」は、クリスティ3大クローズド・サークル「オリエント急行の殺人」「そして誰もいなくなった」の中でも、特異な作品です。オリエントはミステリー史上最大級のトリックと、織り成す人間模様が秀逸。そして、も見立て殺人の物語性と登場人物全員死亡と言う前代未聞の完璧なトリック。本作は予め重要な容疑者が特定された中で行われる密室殺人、ポワロが居る船で鉄壁のアリバイで守られる被疑者。其処に乗客全員に込められた嫉妬の連鎖と愛情の渦が、ナイル川の様に漂う。クリスティの中で、最もロマンティックで、残酷な物語の幕が開く。

1978年版は映像化作品として大成功。だが、日本で公開された時はNino Rotaの叙情的なエンディングとは正反対のサンディー・オニール「ミステリー・ナイル」に差し替えられた。私が生まれる前なので理由は知る由も無いが、続く「地中海殺人事件」原作「白昼の悪魔」は、原作を上手くアレンジして出来はナイルを上回る。しかし「死海殺人事件」原作「死との約束」は、製作会社が変わり低予算も明らかでクオリティは大きく下落。そう、クリスティの世界観を演出する為には、潤沢な資金が必要なのです。

製作費は185億円!。煌びやかなプライベート客船は、動かないのが嘘の様なリアリティ(洋上は全て合成、VFXに多額の予算を投入)。トリックで重要な左舷と右舷の左右対称を強調するデザインと、Branaghが大好きな65㎜フィルムのワイドレンジは、大作映画に相応しいスペクタキュラー。1930年代とは思えない映像美は、正にミステリーの異空間。現代と各世の差が有る、別世界のイリュージョンの幕開けに相応しい。

冒頭「アレ?スクリーンを間違えたかな?」と思った方も多いでしょう。何ならレビュー済「1917 命をかけた伝令」でも始まるのかな?と(笑)。クリスティはポワロ像に関して具体的な言及は意図的に避けた。「探偵は主役であっても主人公では無い」謎を解く探偵は代弁者に過ぎず、ミステリーの主人公は犯人である事を貫いてます。彼が農民の出で有る事、戦争に従軍した過去、悲劇的な恋愛、顔の傷と口髭の由来は、全てBranaghの創作で原作には記されてない。

前作「オリエント急行殺人事件」レビューでBranaghを、徹底的に扱き下ろした。原作との乖離が激しく、何してくれてんねん!と。自分が前に出過ぎてRidley Scottに叱られたかも(笑)。ですが、本作を観て少し肯定的にインプレッションが変化した。彼は彼なりのポワロ像を模索し構築する覚悟が伝わったから。例えば前作から踏襲されるOCD「強迫性障害」。原作では潔癖症で物の乱れに敏感程度のニュアンスですが、対称性の必要性とか奇数を忌み嫌う等、最新の医学アプローチをモディファイしてる。

Branaghは戦争の心の傷が強迫性障害に結び付くと言いたいのだろうが、マスタッシュも原作では「これで相手が油断してくれれば儲けもの」捜査のアプローチの一環としての口髭。彼はベルギー人でフランス語が母国語で背が低い、それを補う為にヘイスティングズ大尉とコンビを組む、イギリスでの彼は常に劣等感との戦いだった。その劣等感を、戦後の傷で表現する。忌み嫌う左右非対称が自分の顔に有る皮肉。因みにポワロが引退してカボチャを育てるのは「アクロイド殺し」に言及されてる。

ポワロ像でBranaghの意図が最も明確だったのはラスト・シーン。原作とは設定の異なるサロメ・オッタボーンの歌を聞き入り幕を閉じる。ポワロがサロメに恋してる設定は1970年代では考えられないプロット。クラブに現れたポワロはトレードマークの口髭を剃り「素の」自分をサロメに曝け出す。滅多に自身の事を話さないポアロは本作では雄弁に過去を語るが、Branaghのポワロへの「愛」。ポアロの人間性もより奥深く感じられた。

前作に登場したブーク役の様に、原作のキャラクターは映画用に簡素化された。ジョニー・レイス大佐がブーク。リネットの弁護士アンドリュー・ペニントンは、人種が異なる従弟アンドリュー・カチャドーリアン。富豪の老婦人、マリー・ヴァン・スカイラーはリネットの名付け親で後見人。スカイラーの付き添い、バウァーズは看護師。作家のサロメ・オッタボーンはミュージシャン。娘のロザリー・オッタボーンは姪でブークの恋人。母親のユーフェミア・ブークは原作に居ない。ベスナーはスイスの医師が、イギリス人貴族。社会主義者のジェームズ・ファーガスは、複数の人物に吸収された。

前作と較べ豪華スター夢の競演には見えない、様に観える。ナイルの場合はロジックとしてリネット役のキャラが立つか否かに繋る。当初はRosamund Pike、Léa Seydoux、Ana de Armas、Keira Knightley、Diane Kruger、Jessica Chastain等多彩な候補から一旦はRebecca Fergusonに決まる。Gal Gadotはイスラエル国防軍の3等軍曹の経歴から、イスラムやアラブ種国から反発を招くとして一旦保留。だが、ユダヤ系のディズニーは躊躇なく彼女の人気に肖る道を選んだ。舞台のエジプトで上映禁止を喰らうこの上ない皮肉。惜しむらくは、彼女が映える撮り方が不十分で魅惑度に欠ける。

ミステリー専門家として瑕疵を指摘。邦題に異議あり!MurderとDeathの違いを知らないのか?。アヴァンタイトルの戦場も全く必要ない。ナイトクラブも、原作と懸け離れてエロ過ぎ。イギリスで「着衣セックス」と揶揄。ナイルの異国情緒も全く足りない。カラーコレクションの造り物の遺跡でムード台無し。最重要な客船のレイアウトも説明せず、極め付きはPC推理。最新のミステリーの潮流Political Correctnessを推理に用いる手法。このロジックなら消去法で推理は簡単。一番の問題点は事件よりも犯人よりもポアロが前に出る、生理的にBranaghに対するアレルギー反応。あースッキリした!(笑)。

Branaghはイギリス人なので、ハリウッドよりもホワイトウォッシングに理解が有る。白人の役を黒人が演じる「カラー・ブラインド・キャスティング」も彼らしい気配り。単に黒人に置き換えるだけに留まらず、現代のLGBTも積極的に盛り込む。マリー・ヴァン・スカイラーがジェンダーと言うのは勿論、原作には無い設定だが、本格ミステリーに多様性「Representation」まで盛り込んだのは意義深い。後で見ていたRidley Scottも、きっと満足してるに違いない。当然、続編を期待しても何の不思議も無い。

イギリスの専門誌の予想は「そして誰もいなくなった」だが、私は違うと思う。切り札は常に手元に置くのがミステリーのルール。最後は原作と同じく「カーテン」か「そして誰もいなくなった」だろう。このまま「地中海殺人事件」でも良し、原点に戻って「スタイルズ荘の怪事件」。或いは人気作品「ABC殺人事件」も悪くない。挑戦的なBranaghなら、クリスティ最大の問題作「アクロイド殺し」をブッ込んで来る(笑)。そう期待させる所までBranaghは戻してくれた。次こそ4.0以上の作品をと首を長くして待ってる自分が居る。

オーセンティックな本格ミステリーを現代に蘇らせた事に、敬意を祝して乾杯したい。
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