小松屋たから

燃えよスーリヤ!!の小松屋たからのレビュー・感想・評価

燃えよスーリヤ!!(2018年製作の映画)
3.0
だからこそなんでもありのインド映画、と言われそうだけれど、まずは、途中の「妄想」の繰り返しをやめたら、もっと面白く観られたんじゃないだろうか。「妄想シーン」があって、直後に「いや実はこうだった」ということをコメディタッチで描くなら、両者に圧倒的な内容の違い、歴然たる差が無ければ面白くないと思うが、本作では同じような映像のマイナーチェンジを繰り返し見せられているだけになっていて、メリハリもなく、ちょっと冗長に感じてしまった。

また、主人公が先天的に痛みを感じない人、ということなのだが、だから強い、ということはもちろん無いはずで、映像を見て真似をしていただけの彼が強くなったというのは映画としては許される飛躍ではあるけれど、加えて「武道」の強さとはただ物理的な力や動きだけでなく精神の鍛練あってこそのもの、ということを、ついに出会えた生身の師匠から教えられるなど、ひとつ、「修行」の段階を経ていれば、もっと、応援したくなるヒーローになれただろう。まあ、これは日本人的発想かもしれないが。

また、主人公が闘う理由が、(現実世界では)ほぼ初対面の師匠の兄弟げんか、その弟子になっていた幼馴染のヒロインのためということなのだが、兄弟げんかの内容に説得力がなく、ヒロイン個人と師匠の苦境もあまりリンクしないので、結局、なぜ、彼がここまでやらなくてはならないのかが不明瞭になっている。

ただ、以上のような脚本上の「破綻」は、実は制作サイドはとっくに織り込み済みで、そんな理屈よりも、とにかく、楽しいカンフー、空手映画を撮りたかったんだ、ということであれば、それはそれで良し、と思うべきなのだろうか。

でも…それならば、B級に徹して「改心して良い人間になっていたヒロインの父親が無残に殺されてその仇を討つ!」とか、「ヒロインのDV男風の婚約者と師匠の兄が繋がっている」とか、もっと単純明快な対立構造にしてくれた方が爽快感があったとは思うけれど。

インド映画はいつも本当に楽しませてくれるが、「空手」「カンフー」といった、多くの日本人がある共通幻想を抱く特殊領域に不意に絡んでくると、本質的な感性の違いを感じさせられることも十分あるのだ、ということは新たな発見ではあった。